わたしが歩く道

祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
私たちは「天の国」という言葉を聞くときに、なんだか遠い未来のことだと思ったり、
死んだ後、きっとどこかに行くのだろうと思ったりします。
それと同じように、自分の命の時間も何だかすごく長く感じたり短く感じたりして、
今、生きている現実と向き合うことが少ないような気がします。
イエス様が教えられた「天の国」の実現も命の大切な時間も、「今」という神様あなたから与えられるかけがえのない時として過ごすことができますように、
一人一人を神様あなたがお支え下さい。

これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てをお委ねいたします。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:マタイによる福音書7章13〜14節】
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか、それを見いだす者は少ない。(14節)

 

今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所マタイ7:13において、イエス様は「狭い門から入りなさい」と語り始めます。なんかとても難しい事をイエス様は言われておられるのでしょうか。いいえ、難しいことはイエス様はおっしゃいません。ただ、この世の価値観だけに捕われてしまっていたら、難しく感じてしまうのかもしれません。私たちは聖書を読み、み言に聴くときにたくさんの価値観の広がりを感じます。

マタイ5章にあるイエス様が語られた山上の説教の中には「貧しい人々は幸いである」と語られています。聖書の中には大きいものより小さいもの、力や腕力が強いものより力は弱いが信仰が強いもの、規則のために人間があるのではなく一人一人の命のために規則があることなど、たくさんの価値観の広がりを私たちに教えて下さいます。

私にもこんな経験があります。ある日新聞の紙面に「命の大切さ」が書かれた記事がありました。その記事の何倍もの大きさで「ミュージカル上映」の記事が載せられていてなんだか滑稽に感じましたが、よく考えると目に見える紙面を比べれば、差があるものの目には見えない読む人一人一人が持っている心に受ける深さが、その「命の大切さ」が書かれていた記事にはあったことを感じることがありました。

今、語られるイエス様のみ言も同じなのではないでしょうか。天へと繋がる道は目に見える大きい小さいだけの判断ではなくて、
もっとあなた自身の持つ大切なものだけが通るのに十分な門を選びなさいとおっしゃっています。イエス様は言われます。「狭い門から入りなさいそれで十分です。あなたが通れるだけでいいから」。