旧約聖書各巻のあらまし
創世記
旧約聖書の最初の書。創世記という名称が示すように世のはじめがどのようにして始まったかということを古代人が当時の知恵を駆使して伝えようとしたものです。最初の十一章までは神話的表現による物語が続き、それぞれに象徴的な意味をもっていますが、世界の始源や人間の存在また生きる意味を伝えようとしたものです。表現の仕方は素朴で単純に見えますが、その表現を現代の我々の言葉に再解釈すると、とても深遠な意味をもっています。時代を超えて人の心を打つのはそのためです。
最近、聖書考古学の発展によって従来は架空の物語と考えられていたものも歴史的に実証されるようになってきました。たとえばノアの洪水物語など考古学的な裏付けをもつようになりました。とくに12章以降の物語からは歴史としていっそう鮮明に実証されるようになっています。
出エジプト記
旧約に登場するイスラエル民族はもともと中近東全域に住むセム族に属し、もともと現在のイラク南部に住んでいたのですが、VTJ註記によると前二千年期頃アブラハムに連れられカナンの地( パレスチナ) に移住しています。しかしヤコブの時代に飢饉が襲い、エジプトに逃れるが次第に奴隷としての生活を余儀なくされ、400年の奴隷の生活を送ります。前13世紀半ば、モーセが立ち、エジプトの主ファラオに勝ち、エジプトを出て荒れ野の旅を送り、40年の年月を経たのち、かつて出てきた故郷カナンの地に帰還するのです。出エジプト記はその壮絶な記録ですが、キリスト教では精神的な奴隷の状態にある人聞が解放され、自由を獲得するにいたる苦闘を描くものとして解釈されています。
民数記
物語の内容としては出エジプト記と同じくモーセによるエジプトからのイスラエル民族解放の物語です。民数記といわれるように人口調査のため民の数を数えたことがその名称の由来となっているのです。その他、律法や規定等の記述が多いのですが、基本的な主題はモーセと彼に導かれてはるばるカナンの地へと旅を続けるイスラエルの民との確執、不信などが記述されています。出エジプト記と閉じく、苦難のさなかに生きる人間の赤裸々な姿を描く歴史物語でです。
申命記
創世記、出エジプト記、レピ記、民数記とともにモーセ五書と言われています。申命記は旧約聖書の信仰的中枢とも言えるもので旧約の信仰の源はこの申命記にあると言われます。文書の構成はモーセの説教という形をとっていて、神はイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放されたが、それは神の約束に基づくものであった。だから約束の地力ナンにおいて定住の生活にはいる時には、シナイ山で与えられた十戒を基本とする信仰生活を送るように勧めているのです。信仰生活とは神との約束に基づくという意味を強くもっています。
ヨブ記
人類は歴史始まって以来、なぜ罪のない者が苦しむのかという聞いに答えを求めてきました。
いわゆる不条理の問題です。ヨブ記はこの問題に真正面に答えようとするのです。ヨブは身に覚えはないのに降って湧いたような災難に苦しみます。ヨブの友人たちが次々と訪れてはヨブに答えを与えようとするのですが、どのような答えもヨブを満足させることはできませんでした。ついにヨブが発見した答えは、神はいかなるときも愛であるということでした。この愛をヨブは創造の世界のなかに発見します。ヨブ記はその答えを見いだすまでの苦闘の一大叙事詩です。
詩編
全体で一五〇編より成り立っています。多くはダビデの作と言われますが、かならずしもダビデが作ったとはかぎりません。内容も各編それぞれに異なり、信仰、賛美、祈り、慰め、苦悩、感謝、希望など人聞が内外に遭遇するであろうほとんどすべての局面を歌い上げています。
宗教改革者ルターは「詩編は小さな聖書である」と言いいますが、それほど多岐にわたって信仰の世界を表現するからです。古来多くの人たちが詩編を愛し、救いや慰めを発見したり、また信仰上の問題に深い洞察を得てきました。
コヘレトの言葉
コヘレトとは「説教者」、「集会を司る者」という意味です。伝統的にはソロモンの作とされますが、内容的に見るときはかならずしもそうではありません。書かれた時代を特定することは困難で、前四世紀以降とされています。旧約聖書のなかでは異色の文書というべきもので、ギリシア思想の影響を受けていると言われます。おそらく当時の世相を反映しており、その時代が外国の圧制のもとに置かれ、社会的混乱が生じていたと恩われます。そのなかにあって人々の間には不満や懐疑が渦巻き、精神的にも虚無的なあきらめに似た気運が漂っていたと思われます。作者もその時代の影響を受けながら、なお信仰とは何かを追求した書です。
イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書
イザヤ書は、旧約聖書のなかの預言書に属し、預言書のなかでもとくにエレミヤ、エゼキエルとともに三大預言書と言われています。預言者は人々に神の怒りや慰めを伝える使命をもち、旧約の信仰のなかで大きな役割を果たしています。イザヤ書はそのなかでも最大の預言書と言ってよく、神と人間についての考えをよく表しています。イザヤは前八世紀後半エルサレムで活躍した預言者でした。しかし六十六章のうち四十章以降からは時代背景が異なるところから別の無名の預言者たちによって書かれたとされています。本文に引用した言葉は第二イザヤのものです。時代的には第二イザヤは前六世紀のパビロニア帝国によって彼の住むユダ王国が征服され、人々はパビロンで奴隷としての生活を送った時代に属しています。この間にメシア(救い主) にたいする考えが逆転し、王のようなメシアから人々と苦悩をともにする僕(しもベ)メシアに変わるのです。このメシア像がのちのキリストの姿に反映するのです。
哀歌
哀歌は第二イザヤと閉じ時代背景をもち、パビロニアによるエルサレム滅亡の後、人々がパビロンに捕囚となって苦しむさまを描きます。また戦争によってすべてを失い、荒廃した町のさなかにあって、人々がいかに悲しみ、苦悩の淵に沈むかを詩の形にしたものです。作者は伝統的には預言者エレミヤとされていますが、これに疑念をもっ学者もいます。全体としてもの悲しく、絶望的な雰囲気をたたえていますが、なお希望を神に託す一途な信仰は読む者の心を動かします。