第七課 パウロの回心
パウロという人物は、教会の恐るべき迫害者でした。大祭司から許可をもらって、ダマスコ地方のキリスト信者を、男女を問わず縛り上げ、エルサレムへ連行しようとしていました(使徒言行録9章1‐2節)。パウロという名前は、キリスト信者たちの間に大きな恐れを惹き起こしていました。そのパウロが回心してキリスト者となり、世界にキリスト教を伝えた人物として歴史に名を留める者となったのです。
いったい何が起こったのでしょうか。
パウロは、「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んでいた」と聖書には記されています(使徒言行録9章1節)。それほどですから、キリスト教の内容については十分勉強していたことでしょう。イエス・キリストの生涯と死も知っていました。また、使徒言行録7章54節以下には、ステファノの殉教の場にも立ち会っていたことが記されています。その時にはステファノの殺害に賛成していたと描かれていますが、キリスト者の勇気ある信仰生活にも触れていたのです。おそらく、ペトロやヨハネの説教も聞いていたに違いありません。
創世記3章8節には、アダムとエバが、神さまに背いて、禁断の木の実を食べてしまった後、「主なる神の顔を避けて園の木の間に隠れていた」と記されています。その時、「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」という記述があります。この箇所を読んで、聖書をおとぎ話のように思っていた人が、突然、「どこにいるのか」という呼びかけが自分に向けられた言葉であると気づき、かって自分が犯した過ちに気づかされ、胸刺される思いで悔い改めた、という文章を読んだことがあります。「神さまが、私を探していらっしゃる。私はとんでもない所にいる!」と戦慄を覚えたというのです。
使徒言行録9章3節で、パウロも、「突然、天からの光に照らし出された。」と書かれています。パウロにとって、全く突然の出来事でした。そこで、イエスさまの声を聞いたのです。その光で、目が見えなくなりました。これは、パウロだけの経験で、同行していた者たちは訳が分からなかったのです。しかし、パウロは、確かにイエスさまに出会ったのです。アナニアという信者によって、イエスさまの言葉を伝えられた時、パウロは目からうろこが落ちるような落ち、見えるようになった、と聖書は伝えます。本当の目が開かれ、今まで見えなったものが見えるようになったのです。
イエスさまの姿も、自分の生き方も、全く新しい目で見るようになったのです。後にパウロは、「自分は罪人の頭だった」と告白しています。
私たちも同じ経験をすることがあります。今まで何気なく読んでいた聖書の一言が私たちの胸を刺し、自分の本当の姿を知らされる時です。そのような経験をする時を祈りながら待ちたいと思います。