第二課 イエス・キリストとは

それでは、イエスさまは何をなさったのでしょうか。次の文章が、その内容をよく表しています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:35,36)。
イエスさまは、ただこの世界に来られて、私たちと共にいて下さるだけではありません。町や村を残らず回って、インマヌエルと言う福音を皆に語り伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた方でした。イエスさまの業は、福音を宣べ伝えることにありましたが、それは心だけでなく、体の癒し、思い煩いからの解放など人間のすべてを包む働きであったのです。
マタイは、「残らず回って」と報告しています。「残らず」です。マタイには、イエスさまの愛の気迫が、そのように感じられたのでしょう。イエスさまは、「これらの小さい者が一人でも滅びることは、天の父の御心ではない」(マタイ18:14)という神さまの御心に従って一人一人に福音を語り、癒しを与え、歩み続けられた方でした。イエスさまの足は土ぼこりにまみれ、時には疲れ果てることもありました。事実、「イエスが旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」(ヨハネ4:6)という記事があるくらいです。
「深く憐れまれた」という言葉も印象的です。この言葉は「はらわたが千切れるような痛み」という意味です。イエスさまは、行き場を失った孤独な人々、将来に希望を持てない人、病気で苦しんいる人、思い煩いに身を焦がしている人に、そのような愛の痛みをもって接し、いやして下さる方です。
事実、イエスさまは、愛する人を失った時、「涙を流される方」です(ヨハネ11:35)。
またご自身も、肉体の痛み、見捨てられた痛みを経験されました。イエスさまは、十字架上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見棄てになったのですか」と祈り、叫ばれた方です(マタイ27:46、ヘブライ5:7)。
一方、イエスさまは、私たち人間の喜びを共にして下さる方でもあります。結婚式に招かれ、その披露宴で葡萄酒が足りなくなったことを知らされた時、水を上等の葡萄酒に変えて、喜びに喜びを加えて下さったこともあります。
イエスさまは空腹(飢え)も経験されました(マタイ4:2)。ですから、人々を空腹のまま、放っておくことはなさいませんでした(マタイ15:32以下)。
このように、イエスさまは、私たちと「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣いて」下さる方でした(ローマ12:15)。私たち人間が経験するすべてを経験された方でしたから、私たちの弱い、迷った心を「思いやる」ことが出来る方なのです(ヘブライ5:2)。
しかも、このイエスさまの愛には分け隔てがありません。乳飲み子、幼子にも(ルカ18:15以下マルコ⒑:13以下)、人々から避けられていた重い皮膚病の人(マルコ1:40以下)、罪人と軽蔑されている人(ルカ5:27以下)、また他民族のも及びます(ルカ7:1以下)。
そればかりか、イエスさまは敵のためにも祈る方でした。