少しでも持つと、ますます豊かになる

第四章 自戒するとき

人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。

持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。(マタイによる福音書13章12節)

【解 釈】 金持ちはますます金持ちに、貧乏人はますます貧乏人になるとでも解釈されかねない言葉である。もちろんイエスはそのような意図をもって語られたのではない。これは、弟子たちが、「どうしてたとえを使って話されるのですか」と尋ねたのに対するイエスの答えである。イエスはよくたとえを使ってご自分のことを語られたからである。このときも種蒔きのたとえを話されたばかりであった。

たとえ話というものは、分かりやすいようでいて、ほんとうの意味はつかみにくい。だから、よほど心して聞かないと表面的にだけ理解してしまう。イエスはこの言葉を通して、物事の本質に迫り、かつ真意を知るためには心備えがいると教えているのである。聖書に「真珠を豚に投げてはならない」という言葉があるように、受け取る用意のないところでは優れた宝物も価値を失う。

イエスが「持っている人は更に与えられて豊かになる……」と言われるのは、あらかじめ知識や才能があれば、キリストの教えもよく理解することができるということではない。キリストの福音の真理を自分のものにするには、見る目をもっていなければならない。また、それを聞く耳をもっていなければならない。「分かった、分かった」といかにも知ったかぶりをしても、ほんとうに理解していなければ、なにも理解していないのと同じである。生半可な知識やもって生まれた才能をひけらかすと、それが邪魔をして物事の本質を理解し損なう。しかし、よく理解しようとして、耳や目を使って真剣に身を乗り出す者は、それこそ一を知って十を知るのとおり、ちょっとした理解の糸口から驚くほどの真理を発見する。

【こころ】 ある七十代後半の男性の方です。奥さんもお子さんも、そしてお孫さんも洗礼を受けられて、ご家族は長年にわたる教会員としての生活を送っておいででしたが、ご本人は仕事が忙しく、なかなか教会に来ることができませんでした。それが定年となり、暇もできたので、日曜日には礼拝に出席できるようになり、とうとう七十歳を記念して洗礼を受ける決断をされました。

それからの信仰生活はまことに目覚ましいものがありました。この方は常に「私はこの歳になって聖書を読んでいますから、分からないことばかりです」と言われます。しかし、暇を見ては聖書を丹念に調べ、ついにはイスラエルまで出かけて聖書の世界を自分の目で確かめるほどでした。短期間にそれこそ牧師顔負けの知識を身につけられ、長年、信仰生活を送ってこられた奥さんもびつくりするほど聖書の世界に通暁(つうぎょう)されるようになりました。牧師もその方の質問に答えるためには、いっそうの勉強をしなければなりません。それからというもの、周囲の人たちも聖書を学ぶ気持ちに駆り立てられることになりました。「分からない」の一言が、周囲を豊かな信仰の言葉で埋め尽くす結果となったのです。