恐怖ではありません
祈り)天の神様私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
とても暑い日が続いております。
自然はあなたに与えられているものと思う時、自然を見て思い起こすことは一人ひとり違います。
しかし、神様あなたから与えられている恵みは、一人ひとりのすべての人に同じものが与えられております。
すべてのものが、一人ひとりに与えられていることに感謝できる私にして下さい。
これから語られますみことば、この語る者を通してここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。
アーメン。
【参照聖書 マルコによる福音書11章15〜19節】
また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。(16節)
皆さんのイエス様のイメージっていったいどんなでしょう。お一人おひとりがお持ちになられているイメージの細かい所は違っていても、だいたい同じで穏やかで優しい方というイメージが大半ではないでしょうか。ところが今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所においては、ほとんどの方のイメージとは違って神殿の中で商売をやってる人々を叱責します。
「怒る時はイエス様だって怒るんだよ」ということなのでしょうか。そんな生温いものではありません。イエス様が感情に任せて怒られたわけではなく、何が一番大切なのかをわかってくれない悲しさ、また祈りもあったのだと思います。そして何よりもそこにいた人たちにわかりやすく教えたのだと思います。「祈りの家を強盗の巣にしている」ことに気づきなさいと。
私たちは気づかずに間違ったことをしてしまったり、人を傷つけたりしてしまいます。「気づかなかったからしょうがないじゃない」と開き直ることもできますが、神様の前で気づいた事に向き合うこともできます。「ごめんなさい」と言うのか「もうしません」と言うのか。でも私たちが考えの及ばない範囲のことまでは自分で責任が取れません。それでもいいのではないでしょうか。自分にできないこともあるし「できないことは神様にお願い」と頼む相手を間違えないことを私たちは選択できるからです。
神様に助けを求める権利はすべての一人ひとりが持っています。その時代の権力や価値観が神様の前に進む一人ひとりを妨げてはいけません。イエス様の行為はいつも神様の愛に満ちています。今、ご一緒にお読みしました聖書の箇所も決して感情的で怖いイエス様ではなく、愛に満ちたイエス様のお姿なのです。