イエス様からのいやし
祈り)
天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
今日もいろいろな自然や、生活する人々の音や香りなど様々に感じさせるものがあります。
様々な感覚の中、私たちは生かされ今があります。
風を感じたり、光を感じたり。
たとえ、全ての人たちに同じものが与えられているとしても、
それらを感じる私たちの気持ちや状況によって、感じ方は変わるでしょう。
いつもならたいして感じない音が騒がしいように感じたり、
にぎやかで楽しそうな音だったのに寂しく感じたり、
一人一人が違うものを感じます。
そして神様あなたは、一つ一つの心を、そのままでいいといつもおっしゃって下さり受け入れていて下さいます。
いろんな自分を、自分が否定したとしても、
神様はそのような私もまるごと受け入れて下さることを感謝致します。
これから語られますみ言この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。
アーメン。
『イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。』マタイ4:23
おはようございます。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所マタイ4:23-25の最後の文章に「大勢の群衆が来てイエスに従った」と書かれています。
イエス様に従うとはどういうことなのでしょうか。
イエス様に会うことができない、現代に生きる私たちはイエス様に従っていないのでしょうか。
「従う」ということは「ついていく」という言葉にも置き換えられます。
その言葉は肉体的なことだけには限らず、精神的に信じることとも表現されます。
目に見えなくて触れる事もできないイエス様の教えに従うことが現代に生きている私たちにはできます。
イエス様の業や教えは、過去や時間の枠で区切る事もなく今も自由に私たちは従う事ができます。
それはイエス様の業やイエス様の癒し、教えは今も生きて働いておられるからです。
イエス様は今も生きておられるのです。
だから、私たちは今は目には見えずに手に触れることはできなくても、
過去の教えとしてイエス様に従うのではなくて、今も生きて働いて下さるイエス様に従うのです。
漠然とした過去の人ではなく、今も生きて働かれておられるイエス様に、今日もついていきたいと思います。