バッハの名言
バッハの没後、遺産目録が作成され、それに従って妻や子らに遺産が相続された。そこに音楽関係のものが一つもないのが注目を引く。恐らく音楽家である息子たちが逸早く持ち去ってしまったのだろう。その遺産目録のトッ
バッハの没後、遺産目録が作成され、それに従って妻や子らに遺産が相続された。そこに音楽関係のものが一つもないのが注目を引く。恐らく音楽家である息子たちが逸早く持ち去ってしまったのだろう。その遺産目録のトッ
晩年のバッハの自筆はかなり乱れている。白内障だったから、そのせいかも知れない。結局この白内障の手術を、施療のため訪独中だった著名な英国人医師から受けて術後の経過が悪く亡くなったのだった(市内の教会墓地に埋葬されたが、その後トマス教会聖壇地下に改葬されて現在に至っている)。
バッハの教会音楽に対する市参事会や聖職者会議の無理解は次第に教会音楽からバッハを離れさせることになった。市参事会とは世の常のとおり、教会音楽のために割かれる出費をめぐってのものだったが、聖職者会議とはその
バッハは教会カンタータを生涯に5年分(約300曲)作曲したと「故人略歴」には書かれているが、残されているのは約200曲で、多くがライプツィヒ第1期に作曲された
ヨハネ受難曲(1724年)とマタイ受難曲(1727年) ライプツィヒでは聖金曜日夕にトマス教会とニコライ教会において隔年で「受難曲」が演奏されることに...
バッハの正式の任務はライプツィヒの音楽監督で、トマス教会とニコライ教会のほかに、市内の他の二つの教会の礼拝音楽にも責任をもたねばならなかった。そのためにトマス学校生徒を4グループに分け、日曜毎に4教会に
バッハはケーテンからライプツィヒに移り、トマス教会カントール、ライプツィヒ(教会)音楽監督となった。こうしてこの地で1750年に亡くなるまで27年間にわたりその務めを果たして、今に残る数々の教会音楽の名曲を残したのである。
1717年末バッハは厚遇をもって、アンハルト・ケーテン公の宮廷音楽長に迎えられた。ケーテンでは宮廷もその領土も、スイス・ジュネーヴの宗教改革者カルヴァンに由来する改革派教会の信仰に立っていた。この伝統では音楽
1年余と短かったが、このミュールハウゼン時代にバッハは又従姉妹に当たるマリア・バーバラ・バッハと結婚した。結婚式を挙げたのはアルンシュタット近郊の村ドルンハイムの小さな教会、今も残っているがここまで訪ねる人はそう多くないらしい。
アルンシュタット時代の作曲と特定できるものは多くはない。しかもみなオルガン 曲、それもコラール(賛美歌)をオルガン曲に展開したものである。コラールの主旋 律を生かしながら、コラールの各節毎の歌詞に応じた巧みな展開を試みたもので、