赦されて、今

祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。
「今日も雨か。うっとうしいな」と思う時には、「今日の雨で紫陽花が喜んでいるみたい」と考えてみる。そんな風に、今を与えられていることを私は喜んでいるでしょうか。

私たちはいつのまにか季節の巡りを当たり前に感じています。
「日本は梅雨があっていいな」と海外に住む知り合いに言われて、季節の豊かさに気付くように、実は私たちは神様から与えられている一つひとつの恵みによって今を生かされています。
その一つひとつに感謝できますように。

これから語られますみことば、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと、そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと神様、あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。

このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン

【参照聖書 ローマの信徒への手紙 5章6〜11節】
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(8節)

「イエス様って十字架にかかられて亡くなってから葬られて、三日目に復活されて今も生きておられるんですよね。これって本当なのかしら。教会ってずいぶん不思議なことを信じている人たちの集まりなのね。」と言われたら、正直私も「そうかもしれませんね」と言うかもしれません。しかし「あなたは今、生きてますよね」と言われた時、「あなた、ずいぶん不思議なこと言うのね」とは多くの人は答えないのではないでしょうか。時々、私も自分が生きているのか死んでいるのかわからなくなったり、自分が生きていることを否定したくなることがあります。しかしあなたは今、神様に生かされています。

この聖書の箇所の中の「ローマ5:8」の中で『しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき』とパウロは語っています。「罪人であったとき」とは、パウロはもう罪人ではないのでしょうか?これからはまったく悪いことはしないのでしょうか?なぜ「罪人であったとき」と言い切れるのか。

それは、神様によって赦(ゆる)されていなければ、自分は生きていることはできないということを知ったからです。「まだ自分が罪人であったとき」とは「罪赦されて、神様に生かされていることを”知らなかったとき”」ということなのです。

「私にそんな時がいつ来るのかしら?」と心配される必要はありません。神様が一人ひとりに合った「時」を備えて下さいます。
それは”今”なのかもしれません。