まるごとのあなたが
祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
この目覚めを淡々と迎えてはいけないのでしょうか?だるい気持ちで面倒だなぁと思いながら迎えてはいけないのでしょうか?
神様から与えられるものは全てありがたーくお受けしなくてはいけないのでしょうか?
私たちにはいろんな思いがあり、いろんな出来事に出会います。それらを一番わかって下さり、一番、私たちの気持ちに寄り添って下さるのも神様です。
神様あなたに全てを打ち明けられる私たちでありますように。
これから語られますみことば、この語る者を通してここにおられるお一人お一人へと、
そしてそれぞれの心にある方々お一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
神様あなたにすべてをお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン
【参照聖書 コリントの信徒への信徒への手紙 5章16〜21節】
つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。(19節)
『神はキリストによって世を御自分と和解させ』(2コリ5:19)とあります。別に神様と和解しなくても私は生きていけるよ聖書は何を言ってるのかしら?と戸惑われる方もおられると思います。
ある朝,私は新聞の二つの記事の大きさの差にとても驚き、皮肉にさえ感じた経験があります。その記事の一つは「人の命を考える」というような記事で、その横の方にあった記事は劇場で行われる劇の宣伝記事でした。劇場の記事は紙面の半分くらいを飾り「人の命を考える」という記事はとてもとても小さな紙面を飾っていました。「随分と差があるなぁ。小さい記事だけど、とても大切なことが書いてあるのに」と思ったときでした。ふと「あれ、そうかこの記事には深さがあるんだ」と思わされた経験を思い出したのです。
私たちは目には見えなくて手で触れることができないものと、目に見えて手で触れることができるのと両方持っています。その価値観は時と場合によっても違い,人によっても違ってきます。ただ、どちらかと言うと手で触れて見えるものの影響を受けやすいし、目には見えなくて手では触れることのできないことを後回しにすることも多いような気がします。
神様も今は目には見えなくて手で触ることもできません「神様が世と和解される」とは「目には見えなくて触ることのできないものを私たちは信じていいのだよ」と伝えて下さることでもあるのではないでしょうか。目には見えなくて触ることのできないものは良いものなのか悪いものなのか判断が難しいことがあります。その基準として「イエス・キリスト」という存在が私たちに与えられました。イエス・キリストは祈る人でしたイエス・キリストは必ず神様へと祈りました。あなたも神様によって造られ大切にされています。そして何よりも神様は今もあなたと共にいて下さいます。
だからたとえ新聞の紙面に取り上げられないような小さな出来事だとしても、一人一人が持つ心の深さに寄り添ってくださる神様が必ずおられます。目に見えて手で触れるものも目に見えない手でも触れないものも今、神様にとってかけがえのないあなたという存在に与えられる大切なものなのです。