帰る場所~神様からの「おかえり」~

祈り)天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
温度の変化が激しいこの季節、
自然や自分を取り巻くたくさんの変化を私たちは受け止めています。
変化の中を生きている自分が予想もできなかった変化に出合うとき、
私たちは戸惑い悩んだりします。
しかし、その中にあっても変わることのない神様、あなたからの愛が、
私たち一人一人を包んで下さっていることを思い起こして生きることができますように、
日々の糧と毎日の心の落ち着きを神様あなたがお支え下さい。

これから語られますみ言葉、この語る者を通して、ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。

このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。

【聖書】詩編60編1〜14節
神よ、あなたは我らを突き放し
怒って我らを散らされた。
どうか我らを立ち帰らせてください。(3節)

「...どうか我らを立ち帰らせてください。」と詩人は詩いはじめます。「あなたにとって帰るところはどこですか?」と聞かれて、皆さんはどこを思い浮かべるでしょうか?昔の事を思い出して、自分の育ったふるさとを思い浮かべる方もおられるでしょう。また礼拝が終わって帰る、老人ホームの自分の部屋を思い浮かべる人もおられるかもしれません。誰かが「おかえり」と言葉をかけてくれるところ、そこが自分の帰る場所なんじゃないかなと私は思ったりもします。

「立ち帰る」という言葉を思うとき、「なんだか思い出す場所」浮かぶのは私だけでしょうか。「昔、お母さんが家に帰るのを迎えてくれたな。」と思い出す人もおられるでしょう。私は物心がついた頃から両親が働いており、いわゆる”鍵っ子”でした。帰っても待っている人が誰もいなくて、たまに「おかえり」と自分に言ってあげることがありました。

でも、私たちが意識していないとしても、すべての一人ひとりに帰る場所はあります。思い出せなくても、待っていて下さる方がおられます。その方はすべての一人ひとりに「おかえり」と言って下さいます。私たちが帰る場所、それは神様の御許(みもと)です。帰る場所があるとき、人は出発できます。歩き出す勇気が与えられます。

「どうか我らを立ち帰らせてください。」と詩人は祈ります。あなたには帰る場所があります。神様がいつでも「お帰り」とあなたを抱きしめて下さいます。