ゆるし
祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
この豊かな自然の中で季節を感じることができることも本当に感謝いたします。
雨が降っているときに「荷物をたくさん持って歩いているのに、傘をさすなんて面倒くさいな」と思うか
「この雨で草花や木々がまた成長できるんだな」と思うかで
同じ「雨が降っている」ということでも、私たちの感じ方は違ってきます。
自分だけの視点に立つか、神様からの恵みの視点に立つかで
希望を持てるか悲観的になるか分かれてしまうような気がします。
いつもすべてが神様、あなたから与えられていることを忘れず
神様からの恵みの中で希望を持って歩める私たちでありますように
神様、あなたが私たち一人ひとりを支えて下さい。
これから語られますみことば、この語る者を通して
ここにおられるお一人おひとりへと神様
あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
今、ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、バラバという悪党が主イエスの代わりに恩赦を受け、解放されていく場面です。いつも読んでいるはずなのに、いつも新しい発見があるのが聖書のみ言であるともいえるのではないでしょうか。それは聖書のみ言が今、読む一人ひとりに生きて働きかけられるからなのです。
「読むときの注意深さが足りなかったのよ」という言葉では言い尽くすことができない事柄であるのだと思います。「バラバもイエスという名前だったんだなぁ」っと思ったのも今回読んで気づいたことでしたが、もっと「あれ、そうだったんだ」と思ったことがあります。それは聖書が書かれた時代、「人々」と書かれても女性や子供は数えられていなかっただろうというのは、私の今までの聖書を読む常識の一つでした。しかし、聖書を書いた人や時代を超えて神様にとっては「人々」の中には女性も男性も子どもも老人もすべてが「人々」だったということでした。だから当時裁判所にいてイエス様を「十字架にかけろ」と大声で叫んだのは、確かに男性だったでしょう。しかし同時に、声を出さないで見守るしかなかった女性や老人も、黙ってイエス様を十字架へつけてしまったのだろうと思います。
今、お読みした聖書の中にも「沈黙」していた人々はたくさんいたでしょう。しかし、人々の「沈黙」は弱さや権力からの逃避でした。ここではイエス様も「沈黙」されましたが、イエス様の「沈黙」は強さであり、赦しです。イエス様が私たち一人ひとりを赦すために「沈黙」されていたことを覚えたいと思います。