神と和解するとは②~ふたつをひとつに~

祈り)天の神様、新しい目覚めを与えて下さりありがとうございます。
神様に与えられるもの、それは思いつく全てのものなのではないでしょうか。
自然や空気、命、水それらの一つ一つの結晶が
私たち人間に与えられている人生一つ一つであるような気がします。
ダイナミックな大自然から一つ一つの命まで、神様あなたの業は数えきれません。
自分たちが理解できて数えきれる世界しか信じられない、
ちっぽけな私たちでさえ、あなたは大切にして下さいます。
そのようなあなたに少しでも多くの感謝できる私たちでありますように。

これから語られますみ言葉、この語る者を通してここにおられるお一人お一人へと
神様あなたがお語り下さい。この語る者の全てをお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。

【参照聖書箇所:エフェソの信徒への手紙2章14節ー18節】

こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(15〜16節)

「二つのものを一つにする」って簡単に言いますが、実は難しいことです。
何か多数決で意見が多かった方に少数派が屈するとか、強い勢力に吸収合併されてしまって二つのものが一つになるとは違います。その方法だときっと少なかったり弱い方に、我慢や悲しみや目には見えないたくさんのストレスを与えることになるでしょう。それらのストレスが目に見えるかたちになったとき、私たちの予想を超えた大きなかたちになって現れることもあるかもしれません。しかし、イエス様は違いました。イエス様は和解をもって二つのものを一つにされました。誰も我慢や悲しい思いはしません。

ここで言われている「二つのもの」とは「霊なるものと肉なるもの」です。平たく言えば「見えるものと見えないもの」とでも言うのでしょうか。イエス様は神様と人間の架け橋です。私たちはイエス様が語られることばによって、神様のみ心にふれ神様の存在を知ります。私たちが神様に語りかけ祈るときは必ず、イエス様のお名前を通します。それならイエス様はどのようにして私たちと神様に「和解」をお与えになられたのか、
それは今朝ご一緒にお読みいたしました聖書の箇所に書かれております通り、十字架においてです。

「死刑にされるのがどうして」と思うかもしれません。しかし「どうして死刑に、しかも十字架刑に」そしてどうして復活されたのか。肉なるものにとっては「死」は終わりです。しかし霊なるものにとっては「死」は終わりではありません。

私たちはイエス様に出会い、一人一人それぞれのペースでイエス様に心を開いたり閉じたりしています。一度にに理解しようとしたり解ろうとしなくても、いつも共にいて下さるイエス様があなたにふさわしいときに和解を与えて下さいます。

そして一人一人にささやかれます。「あなたは私と新しい命に生きている」と。