いつもあなたに寄り添っておられるから
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祈り)天の神様、私たち一人一人に新しい目覚めをありがとうございます。
私は神様が大好きです。
神様は「何を今さら恥ずかしいやめてくれ」なんて照れて否定することなく
私たち一人一人を真っすぐに見て、「ありがとう」と言って受け止めて下さいます。
言葉に表さなくてもわかるはず。この思いは伝わっている。と思っていても、
自分が今、何を感じ、思っているかを言葉にして相手に伝える大切さや、
そうすることによって今、自分が何を感じて、どう思っているのかがわかる時があります。
神様、あなたにばかり自分の心の声を聴いて下さるように求めるだけではなく、自分に立ち止まる勇気が持てますように。
これから語られますみことば、語る者を通して今
みことばから聴くお一人お一人へ、そしてお一人お一人の心にあるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを、主イエスキリストのみ名によってみ前にお捧げ致します。
アーメン
【参照聖書箇所:イザヤ書53章1〜5節】
彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
わたしたちは思っていた
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。(4節)
「なんで?」と思うくらい、その時、聴いた聖書のみことばに慰められる時があります。今、ご一緒に聴いた聖書の箇所のみことばが、私にはそうでした。なぜでしょうか?だって、お一人お一人の置かれた状況も違えば、環境も年齢も性別も国も時代も違います。でも聖書のみことばは同じです。多少の表現の仕方が国によって違うかもしれませんが同じ聖書からのみことばです。今を生きる全ての一人一人を慰め、勇気づけることができるのは聖書のみことばが、生きてあなたに語りかけられるからです。「おー怖っ!いつも神様に見張られてるんだ。」と思う必要はありません。神様が逐一あなたの行動をチェックして見張っておられるのではなく、神様がいつもあなたと共におられ、見守られているから安心してあなたは今を生きることができるのです。
今ご一緒に聴いた聖書のみことばは「苦難の僕(しもべ)の詩」としてイエス様の受難と重ね合わせて読まれることが多い詩です。しかし、この詩が実際に書かれたのは、イエス様がこの世にお生まれになるよりも、はるかの昔に書かれた詩であると言われています。今あなたが生きて感じる痛みも、苦しみも悲しみも「みんな同じなんだよ」と神様は終わらせません。お一人お一人の感じる一つ一つの「痛み」や「苦しみ」「悲しみ」は特別なものです。だからこそ今も一人一人と共におられ、生きて働かれる神様が共に担われるのです。荷物をどこかへ置いて忘れて楽になるのではなく今、自分に与えられている荷物を神様と共に負って、自分の速さで歩くのです。
神様と共に歩く今、あなたの道はなだらかで楽な道ではないかもしれませんが、神様と共に今、あなたが歩く道は希望と命に溢れています。あなたは一人ではありません。