ありがとう私を思い出してくれて

祈り)天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
私たちの心は、何を中心にするかで自分の行動や価値観がまるで違ってきます。
自分が尊敬している方だったり、今必要な物であったり、名誉であったり。
しかし、命と向き合う「時」を与えられる時に、今ある自分が当たり前ではなく、
たくさんの与えられている恵みによって、支えられていることに気付くことがあります。
私たちが気付いても気付かなくても、いつも変わらず私たちに、たくさんの恵みを与えて下さる神様に感謝します。

これから語られますみことば、この語る者を通して今、聖霊のお導きによって、
聖書から聴くお一人おひとりと、皆さんの心にあるお一人おひとりへ、神様あなたがお語り下さい。
この語る者の全てを神様、あなたにお委ねいたします。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通して、み前にお捧げ致します。

アーメン。

【参照聖書箇所:詩編51編3〜11節】

神よ、わたしを憐れんでください(3節)

 「神よ、わたしを憐れんでください」(詩編51:3)と詩人は詩(うた)い出します。しかし、神様は「何をいまさら言ってるんだ、もう私はとっくにあなたを憐れんでるではないか」と怒り、一人一人の祈りにいちいち腹を立てられるのではなく、神様は「私に心を向けてくれて、ありがとう」と一人一人に心を留めて下さいます。このことは人間が神様に造られてからずっと、何千年も何百年も前から、毎日毎日繰り返されてきたのかもしれません。でも、神様は「また、お前か」と言われるのでも、「いい加減、私を休ませてくれ」と言われるのでもなく、「よく私に心を向けてくれた、ありがとう」と、いつもいつも受け入れて下さいます。私たちの日常での多くは、何かを私が要求しなければ、与えても、わかっても、もらえない。そのような関係に慣れてしまっているように思います。

もし、私が要求する前に、私の要求したいことがわかっていた相手から「そのくらい、言わなくてもわかるよ」と言われてしまうことも少なくないような気がします。 でも、神様は違います。あなたが「神様、私を憐れんで下さい。」と言う前に、もうあなたを憐れんで下さっておられます。ただ「神様、私を憐れんで下さい。」と祈ることで、あなたが今も確かに神様によって憐れまれ、大切にされていることに気付くのです。

私は、一人でいろいろ考えていて、悩んでしまっているある時に、「自分が今、何を考えてて何をして、何に悩んでいるかを一つ一つ文章に書いて、それを客観的に見てみなさい。」と言われて、一生懸命やってみたことがあります。文字が自分でうまく書けない今でも、パソコンで文字を打ってみることがあります。祈りも同じではないでしょうか。ただ祈りは、具体的な言葉で 悩みを客観的に自覚するためではなく、 いつも自分を受け入れて下さる方に心を向けるだけで、いつも神様にどんな自分もそのまま大切にされ、憐れまれていることに気付かされるのです。

神様はいつもあなたの祈りに心を傾け「ありがとう。私に心を傾けてくれて」と喜んであなたを受け入れて下さいます。