あなたはもう信じられています

ヨハネ11:38-44
​ 11:38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。 11:39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。 11:40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。 11:41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。 11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」 11:43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 11:44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
  

 
祈り)
天の神様、新しい目覚めをありがとうございます。
「こうなったらいいなぁ」とか「ああだったらいいのに」と私たちは思い描いたり想像したりします。
本当にそうなることが自分にとって必要なのかどうかなんて考えるときもありますが
だいたい今自分が置かれている現実からの逃避のときに想像することが多いかもしれません。
しかし神様、あなたは必ず一人ひとりにふさわしい「時」にふさわしい「こと」を与えて下さいます。
それらの一つひとつの与えられたものをいつも神様あなたに心を向けて乗り越える落ち着きを与えて下さい。

これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人おひとりへと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてを神様あなたへお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前を通してお祈り致します。
アーメン

わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。(ヨハネ11:42) 

「信じる」ということは、いったいどういうことなのでしょうか。自分の思い通りに物事が進むようになれば信じられるのか、自分が納得いけば信じられるのか。逆に考えもしなかったことが目の前で起こると、いくら奇跡を願っていたとしても、信じられないほど驚かされることもあります。

今ご一緒にお読み致しました聖書の箇所は、死者を蘇らせるという信じられない出来事が語られています。このことは死んでいたラザロという人が特別だったのでもなく、ラザロの姉妹の信仰がイエス様の思いに適っていたからでもありません。イエス様は神様であり、神様のみ心をそこにいた人々だけではなく、今、聖書を読んでいる私たち一人ひとりに示されるために行われた出来事です。

何か希望を叶えるために好きなものを止めてみたり、ときに自分が良いと思われる行動をしてみたり、私たちは神様と駆け引きしたりしますが、それが結果的に自分の体に良かったり、精神的に安定したりするかもしれません。しかし、神様が行う奇跡とは関係がありません。奇跡は神様から起こることなのです。それが結果的に自分にとって良いことであっても、あなたが願った結果なのではありません。ただ、神様は一人ひとりにとって必要なことしかなさりません。 

奇跡は神様がされることです。奇跡を願うのではなく、一人ひとりを大切にされている神様を信じ、受け入れていく者でありたいと思います。