命を与えられて

エゼキエル9:9-10

9:9 主はわたしに言われた。「イスラエルとユダの家の罪はあまりにも大きい。この地は流血に満ち、この都は不正に満ちている。彼らは、『主はこの地を見捨てられた。主は顧みられない』と言っている。 9:10 それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをかけることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。」

祈り)
天の神様、私たち一人ひとりに新しい目覚めをありがとうございます。
土の中からたくさんの命の息吹が出、
例年より気温が高く、私たちは春の気配を早くから感じ、
天候は初夏を感じるような日も4月くらいからありました。
しかし、神様あなたが私たちに与えて下さる一つひとつの恵みには
平均的な値や重さの違いなんてありません。
神様あなたは一人ひとりに、十分な恵みや愛を慈しみを持って注いでいて下さいます。
今日もあなたに感謝いっぱいで過ごすことができますように。
これから語られますみ言、この語る者を通して
ここにおられるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。
この語る者のすべてをお委ねいたします。
このお祈りを、主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン。
それゆえ、わたしも彼らに慈しみの目を注がず、憐れみをか蹴ることもしない。彼らの行いの報いを、わたしは彼らの頭上に帰する。(エゼキエル9:10) 
「何のために私は生まれて来たのだろう。」
このような思いを少なからず一度はお思いになられたことはないでしょうか。「何のために私は生まれて来たのだろう。」私もこう問わずにはおられない、そんな心の追いつめられた状態になるときがあります。
では、イエス様はどうでしょうか?イエス様は何のために生まれていらっしゃったのか。私たちはイエス様の十字架への道の歩みを覚えます。イエス様は十字架の上で死ぬために生まれたのでしょうか。
いいえ違います。イエス様も神様からこの世に生を受け、神様に必要とされて生かされたのです。
それは私たち一人ひとりも同じです。今生きているのは、今ここであなたという存在が必要だから。神様に見える存在としての命を、あなたは与えられています。見えない存在として必要とされ、生かされている命もたくさんあります。
じゃあイエス様と私は同じ?
私たちは人間です。神様であるイエス様とは違います。私たち人間は、地上で生きられたイエス様のように生きようとすることもできるでしょう。しかし、神様であるイエス様のように、神様と人間の架け橋そのものにはなれません。でも神様であるイエス様と人間を繋ぐ心や祈りを、人々に分けることはできます。私自身をどんなに小さくて弱く感じていても、ありのままのあなたを神様は用いて下さいます。
「何のために私は生まれて来たのだろう。」ではなく、「神様があなたを必要とされているから、今あなたは命が与えられている」のです。