神様を裏切ってしまった時の聖書 ~それでも信じられている~
何だかわかりませんが晴れていると早く起きて体を動かしたくなったり、それが人によっては曇りや雨の日だったり、一人一人の体調や気分によっても様々な目覚め方があります。しかし、神様あなたから与えられる一人一人への目覚めは変わることがありません。神様あなたから与えられている一つ一つの全てに気付く時もあったり、当たり前に思ったりする私たちですが全てに感謝できる「今」を与えて下さり感謝致します。
これから語られますみ言、この語る者を通してここにおられるお一人お一人へと、またお一人お一人の心にあるお一人お一人へと神様あなたがお語り下さい。神様あなたに全てをお委ね致します。
このお祈りを主イエスキリストのお名前によってお祈り致します。
アーメン
「ばっかじゃない。この人こんなに何回も使用人にひどい目にあっているのに」と思われる方も少なくないと思います。実際この聖書の箇所を読んだとき私も思いました。
12:11これは主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える
神様はそれほど私たち一人一人を信じて下さっています。今、あなたは神様に信じられています。「...だから」とか「...であれば」というような「条件があるから、あなたを信じます」というのではなくて、神様は「あなたはあなただから、私は信じています」と言われます。
昔、観たテレビドラマで「私はあなたを信じます」と、いくら言葉で伝えても信じてくれない少年院出の生徒に先生は家の鍵を預けます。それは先生が自分では家にお金を取りに行けない時に、その生徒にお金を持って来てもらうようにと鍵を預けるのです。その場面を思い出します。その生徒を信じて待つ先生と、信じられることを知らなかった生徒の迷い。そして信じられることへの責任や喜びが表現されているドラマでした。
神様は鍵ではなく、この私に命を与えて下さっています。あなたは神様から信じられ、神様のもとへとあなたが帰ることを、今、待たれています。神様に生かされている今を精一杯生きて行きたいと思います。