第四課 アブラハムの信仰

 主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。・・・」 創世記12章1節

 

アブラハムは、信仰の父と言われ、旧約聖書のみならず新約聖書においてもよくその名が出てくるほど尊敬された人物です。また、キリスト教の世界を越えて、ユダヤ教、イスラム教でも崇められています。

彼が、それほどまでに尊敬される理由は、その信仰の確かさによります。もともと彼は、ユーフラテス川の下流、カルデアのウルの出身でした。やがて、彼は父テラの率いる一族と共に北メソポタミアのハランに移住します。テラがその地で死に、アブラハムは神の召しを受けてカナン(古代パレスチナ。当時カナン人が住んでいたのでカナンと言われる。)に向かって旅立ちます。その旅立ちに際し、神から聞いた言葉が冒頭に引用されています。「わたしが示す地に行きなさい」という言葉に従ってアブラハムは旅立ちます。新約聖書のヘブライ人への手紙11章8節によると「信仰によって・・・行き先も知らずに出発したのです」とあります。

人は、新しい計画を立てる時には、よく考えて将来の見通しを立てて実行に移すことでしょう。このアブラハムのカナンの地への旅立ちには、神の計画はあっても人間の側の計画はありません。でも、この旅立ちの物語には、わたしたちにとって大きなメッセージが隠されています。

考えてみれば、人間というものは、自分に頼って生きるか、神に頼って生きるか、どちらかの生き方を選ばねばなりません。自分に頼って生きるとは人の知恵や力を信じて生きることです。しかし、よくよく考えて見ると本当に自分というものは頼りになるのでしょうか。よく考えて計画を練ってこれからの人生を生きようとしても最後の最後まで絶対的な信頼を自分に寄せていくることができるのでしょうか。何が起こるのか、これから先どうなるのか、人間には分からないのが現実です。それでも生きようとすれば、なるようにしかならないと諦めるか、どうでもいいとやけになるか、徹底して迷い抜くか、お先真っ暗の時は、いずれかを選択しなければならなくなるでしょう。

神に頼るとは、自分の知恵や力を越えた存在に身を任せることです。要するに「委ねる」ものを持つことです。「委ねる」とは、なるようになれと運を天に任せる生き方とはちがいます。「委ねる」とは、お先真っ暗でも「エイヤッと」と前に向かって身を躍らせて生きる勇気です。そのためには「委ねる」に値するものを持たねばなりません。それが「神」なのです。

その時、人は不思議な安心感を得て、生き方がぶれなくなります。たとえ、先がどうなるか分からない時であっても不安がないのです。「神」という「あのお方」がその先においでになるからです。これは、たくましい生き方です。アブラハムはこの生き方を生きた人です。こうして彼は「多くの国民の父」と言われ、子孫からメシアを生み出すこととなったのです。