第二課 罪とは何か
蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」 創世記3章4〜5節
聖書は、人間は罪人であると教えています。これを聞くと、ちょっと驚きますね。別に悪いことなんか、ちっともしていないのになぜ?と言いたくなります。でも、少しだけ立ち止まって、聖書が言っていることに耳を傾けてみましょう。
蛇が登場します。蛇は賢い知恵の象徴として描かれていますが、こういう表現のことを神話的表現と言いますが、昔の人は不思議に思ったことがあるとそれを分かり易いかたちにして説明しようとしているのです。内容はというと中々奥が深いことに気付かれるでしょう。
このような蛇の上手な誘惑の言葉が出て来るためには、話しを少しさかのぼる必要があります。聖書の創世記には、人間がエデンの園に住むようにされたとあります。そこには、命の木と善悪の知識の木があって、神は人間に善悪の知識の木からは取って食べてはならないと命じられたとあります。これなども神話的な表現ですね。
ところが人間は、もともと自らが世界の主人公でありたいと願っています。そう人間は思っていることを蛇は,巧みに後押していると言ってよいでしょう。
だから蛇は言うのです。神は人間が世界の主人公になることを恐れている、だから善悪の知識の木から実を取って食べてはならないと言われるのだ。大丈夫だよ食べなさいよ、とそそのかします。
この聖書の個所は、それこそが罪を犯すことなのだと、その人間の思いに考えてもみなかったことを教えているのです。なぜなら、神は創造主であって、人間は造られた存在である、このことは人間存在の基本であって、けっして忘れてはならないと教えているのです。
しかし、人はついつい蛇の誘惑に負けて、木の実を食べてしまい、造られたということを忘れてしまった、それが人間の罪の始めであると聖書は言うのです。
つまり創造者である神と被造物である人間の立場が逆転しているのが、罪であることをまず知らねばなりません。ということは、罪とは人間にとって都合のよいこと、世界の主人公になることが罪だと言われているのです。「へぇー、どうして」と言いたくなりますね。
何よりも人間は神から造られた存在であることを知って、神を主人公とする関係を回復しなければならないのです。それは世界の創造者、絶対者、究極の存在者であるお方を自分の上に持たねばならないのです。簡単に言えば、自分よりも偉いものを持つことなのです。このことがどれほど大切であるか、次第に分かってくると思います。ファーブルという昆虫学者は、ある人から「あなたは神を信じますか」と尋ねられて、「私は毎日神を見ている」と言ったそうです。人間の賢さの及ばない世界が、昆虫の世界にあることを知った人の言葉です。トンボ一匹作れない人間が世界の主人公になれるなんてとんでもないと思いませんか。