第八課 メシアとは誰か

 

彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。
イザヤ書53章5節

どのようにも先の見えない苦しみに遭うとき、運命と諦めるのでしょうか、なにかの報いであると恨めしげにわが身をふり返るのでしょうか、神からの試練であると受け止めることができるほどの苦しみなら、まだ打つ手はあるかもしれません。どのようにしても解決の目処が立たず、絶望だけが駆け巡るとき、どうすればよいのでしょうか。

もしそのようなとき、代わって苦しみを負う存在があれば、これこそ究極の答えとなるでしょう。イザヤは、そのようなお方がメシアとしておいでになるのだと告げているのです。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであった」(四節)と彼は言います。ここに預言されているのは,キリストの十字架の出来事であることは明らかです。

十字架の出来事について、ルターは言います。「キリストは、今や神の子ではなくて、罪人である。かつて涜神者(とくしんしゃ)、迫害者、暴力の徒であったパウロ、キリストを否定したペトロ、姦淫者、殺人者であったダビデの罪をわがものとし、我が身に負われる。・・・それによって、我々を罪から救い出してくださった」と。

「このように私の罪、あなたの罪、全世界の罪をキリストに着せ、それでキリストを包み込み、キリストがわれわれのすべての罪を負われるのを見ることは、われわれの最大の慰めである」。また「全世界の罪が、キリストの負わされているのなら、罪はこの世にない。全世界の罪がキリストにないなら、それは、この世にある」と言い切ります。すごい言葉ではありませんか。

でも、わたしたちの理性はそう言わないかもしれません。「世の中には、テロがあり、殺人が起こり、汚職がはびこっている。罪がないなどと呑気なことを言っている場合ではない。」

しかし、信仰はそのように言わないのです。「全世界の罪が、キリストの負わされているのなら、罪はこの世にない」というのです。世界の究極の終わりを現す、この言葉があって、わたしたちは、現実の中に希望を見出します。また、たとえ、世界の平和への小さな働きであっても、わたしたちが求めて止まない、罪のない世界へ向かっての一歩を踏む出す勇気を持つことができます。小さな働きであっても無駄にはならないことを知るからです。

キリストは言われました。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものはご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。」そう言って、主の祈りを祈るようにと教えてくださったのです(マタイ福音書6章8節)