第九課 信仰と救い

ルターは、約束された輝かしい未来を捨てて、修道院に入りました。修道院の規則をきちんと守って、永遠の御国へ入る確かな保証を得ようとしたのです。この世での出世よりも、永遠の業火から救われることが大切だったのです。本当に真剣に人生を考えていたと言えます。そこで、彼は、他の修道士よりも熱心に努力しました。しかし、結果は絶望でした。努力すればするほど自分の罪深さに気づかされるのです。パウロと同じ経験をしたのです。つまり、死すべき罪人である自分を発見したのです。
ところが、まさにその時、大逆転が起こったのです。彼は、次のように語っています。
「人間が、このように破滅し、人間のすべての力、わざ、存在において無となり、一人の悲惨な、呪われた、棄てられた罪人に他ならなくなるとき、神の助けと力が来る。」と。いったい何が起こったのでしょうか。自分の努力、自分の力で、永遠の神の御国への保証をかちとろうとして出来なかったルターは、その絶望のどん底で、キリストの十字架に出会ったのです。
「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:23)という出来事に出会ったのです。
第八課の終わりで、ガラテヤ書を引用し、律法を守ることによって自力で天国を獲得する努力に絶望した時、キリストに導かれると暗示しましたが、それは、まさにこのことだったのです。
ルターが自分自身を、「一人の悲惨な、呪われた、棄てられた罪人である私」と知らされた時の絶望の深さを思います。同時に、罪人を救うために十字架に死に、勝利者として復活されたイエスさまの愛のうちに生かされている自分を発見した時のルターは、どんなに大きな喜びと平安が与えられたでしょうか。ルターは、「天国の門が目の前で開かれている」と喜びの声をあげています。
このキリストの十字架の死と復活による救いの確かさ、これを信じる信仰、今、ルターは、この真実の救いと魂の平安を見出したのです。
パウロは、このイエスキリストを通しての勝利を、次のように謳っています。「どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです。」(ローマ8:38以下)と。
私たちも、キリストの十字架の愛を通して与えられた神さまの愛を信じて、真の喜びと平安に生きましょう。