第八課 律法と罪
エジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民が、モーセに率いられて、エジプトを脱出し、カナンの地に帰還する途中の出来事でした。神さまはモーセに10の戒め(律法)を二枚の石の板に書いてお与えになりました。これは人間らしく生きるために守るべき戒めでした。民は、これを聞いて、一斉に「全部、守ります」と約束しました(出エジプト記19,20章、ヨハネ福音書1章17節)。戒めが与えられたことを喜びました。当然でしょう。何故なら、この戒めは、「父と母を敬え」「盗むな」「殺すな」など、誰が見ても守るに値する内容だったからです。人間が、人間として踏み外してはならないガードレールともなるものでした。人々は、「これを守っていれば平和に生きていける」と考え、喜んで「守ります」と約束したのです。
ところが、人間の罪は、この神さまからの贈り物さえ悪用することを思いつかせたのです。自分たちは、この律法を持っているから、他の民より優れている、と他民族を軽蔑するために用い始めました。更に、律法主義者と呼ばれる人々も現れました。彼らは、「自分たちは、律法をしっかり守っている。君たちは守っていない恥ずべき人間だ。」と他人を貶めるために律法を用いました。
アダムとイブの最初の罪(原罪)は、「神さまのように善悪を知る人間になりたい」ということでした(創世記3章5節)。自分が神さまになって人々を裁く(善悪を決める)、という意味です。神さまでない人間が、神さまとなるという思い上がりです。これは、すべての人間が心の奥底に持っている根源的な罪です。人間同士裁き合い、憎しみ合う世界が出現したのです。
イエスさまは、この状態を深く悲しまれました。そこで、神さまのみ心に従って「律法を一点一画まで厳格に守る」とはどういうことかお示しになりました。「兄弟に腹を立てる者」「ばかもの」「愚か者」と言う者は、「殺すな」と言う戒めを破ったものだから、火の地獄に投げ込まれる、とおっしゃったのです(マタイ5章21節以下)。無茶な言い方に聞こえますが、よく考え得ると、よくわかります。私たちは、「憎い」と思うから、人を傷つけたり、殺したりするのです。罪を犯す原因は心にあるのです。
この事実に、傷つき苦しんだのがパウロです。彼は、自分自身の心を見つめながら、「わたしは、自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」「わたしは何とみじめな人間なのでしょう。誰がわたしを救ってくれるでしょうか。」と叫びます(ローマ7章)。確かに。パウロは人並み以上に鋭敏な良心の感受性を持った人物でした。しかし、真剣に、イエスさまのお示しになった律法の要求することを守ろうとする時、パウロは絶望しました。しかし、この叫びはパウロのみならず、人間共通のものでしょう。人は、「律法によって罪人となる」(ローマ5:12以下)のです。
ところが、同じパウロがこんなことも言っています。「こうして、律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。」と。(ガラテヤ3:24)
これはどのような意味でしょうか。それは、「わたしは死すべき罪人だ」と絶望した瞬間に、「罪人を救うために死んでくださったキリスト」へと導かれるという意味です。この点は、後に更に考えます。