第四課 イエス・キリストと十字架

パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、「わたしは、あなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(コリント一2章2節)と書いています。これは、「このことしか話すまい」という意味にとれます。それほど、イエス・キリストの十字架の出来事は重要なのです。
事実、福音書は4つとも克明にイエスさまの十字架の出来事を記しています。共観福音書で最も短いマルコ福音書ですら、その三分の一をイエスさまの十字架の記事に当てています。他の三つの福音書とは違った内容、書き方をしているヨハネ福音書でも詳細に報告しています。
どうして、あの悲惨なイエスさまの十字架の出来事がそんなに大切なのでしょうか。あのパウロは次のように言っています。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は、私たちに対する愛を示されました。」(ローマ5章8節)。マルコの言う「身代金」とは、この十字架の出来事を指しているのです。イエスさまが、私たち人間に罪の赦しを与えるために自分を犠牲として差し出し、十字架上で死んでくださったのだと言うのです。感謝すべき出来事です。
しかし、「罪人であったとき」という言葉に注意してください。これは、まことに不合理で、理屈に合わない出来事です。イエスさまが、信心深い人々を救って下った、というなら分かります。しかし、イエスさまを信じない、あるいは無視し、自分勝手に生きる罪人のために命を捨てて下さったなど到底承服できないと憤慨する人もいるでしょう。私たちの世界は因果応報を合理的で、理屈に合っていると考えます。「信仰を持てば、救われる」「善い行いをすれば、報われる」「勤勉に働くなら、善い給料がもらえる」という考えです。
ところが、イエスさまは罪人を救うため、敵のために命を捨てて下さったというのですから驚きます。
イエスさまは絶望的な裏切りに出会っていらっしゃいます。イエスさまが逮捕された時、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とマタイは報告しています(マタイ26章56節)。「皆」という言葉が悲しみを増します。イエスさまを裏切ったのはユダやペトロだけではなかったのです。寝食を共にしてきた最も親しい弟子たちが、一人残らず、イエスさまを見捨てて逃げてしまったのです。ここに人間の罪深さが表れているのではないでしょうか。人間はいざという時、親友でも裏切るというのは、人間の悲惨ではないでしょうか。しかし、それでもイエスさまは、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23章34節)と苦しい息の下から祈って下さったのです。まさに世界を包む祈りです。