第十課 愛と自由

「語りかける」「心を通わせる」、つまり「愛し合う」ということは、人間に神さまから与えられた最も大きな恵みです(創世記1章)。ところが、アダムとエバが、「神さまのようになりたい」と考え、禁断の木の実を食べてから、人間の心は、自分を神さまとする自己絶対化に陥りました。原罪です。それでも、人間は、人を愛したいと願うのですが、「愛する」という行いの中に、どうしても「自分のために愛する」という利己的な打算が紛れ込んでしまうのです。従って、裏切りと偽善による「愛の悲劇」は世に絶えません。悲しい現実です。

ところが、イエスさまの愛に出会った時、私たち人間は全く新しい愛を知りました。イエスさまは、罪人である、いわば神さまの敵である人々を最後まで愛し通し、彼らを救うために十字架に命を捨てて下さったのです。そればかりでなく、自分を十字架につけた人々のために、「父よ、彼らをお赦し下さい。」(ルカ23:34)と神さまに執り成しの祈りまで捧げて下さったのです。私たちは、これほど深い愛を経験したことがありません。「敵を愛する」「打算のない愛」がここにあります。これこそまさに「無償の愛」と呼ぶべきものでしょう。しかも、それは、「敵のために命を捨てる」というまことに測り知ることの出来ないほど高価な愛なのです。このイエス・キリストの愛は、これに出会った人々の心を震え動かしました。

「神さまに滅ぼされるべき罪人だ。」と絶望に落ち込んでいたパウロ、ルターでしたが、このイエスさまの愛が、「他ならぬこの私のためだ。」と知った時、喜びに打ち震えました。まったく新しい世界に生まれ変わった経験をしたのです。

事実、パウロもルターもまったく変わりました。「多く赦されたものは、多く愛する」(ルカ7:36以下)のは当然のことです。パウロもルターも、赦された罪の大きさ、深さを知っていたので、多く愛する者となったのです。

ルターは、このような変革された自分の姿を次のように語っています。「この宝は、われわれを受け入れて下さったキリストからわれわれのうちに流れ込んで来、われわれからこれを必要とする人々へと流れ込んで行く。」と。つまり、私たちの愛でなく、キリストの愛が、私たちを通して隣人へと流れ込んで行く、と言うのです。

パウロも、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と、神さまの愛の働き、その力強さに感嘆の声をあげています。

これは、命令されたからでなく、義務感からでもなく、自由な、自発的な、喜びに満ちた愛の誕生です。