新約聖書主要各巻のあらまし

マタイによる福音書

聖書は旧約聖書、新約聖書に分けられていますが、全体としては一つの物語です。それは神さまがお創りになった人間が神さまに反抗し、罪人となってしまったこと。そのような人間に「帰って来なさい。」と預言者などを通して呼びかける神さま。更に、何とかして罪人を救おうとされる神さまの愛の心が書かれています。そして、この神さまの愛が救い主としてこの世に来られた神さまの独り子イエスさまの生涯に現れるのです。これが新約聖書の始まりです。
福音書は、このイエスさまの生涯を描いたものです。福音という言葉は「良いニュース」という意味で、救い主イエスさまが来られたことを喜ぶという意味です。
福音書は4つありますが、マタイ、マルコ、ルカは内容がよく似ていますので共観福音書と呼ばれます。マタイは、イエスさまこそ旧約聖書で預言されていたメシア(救い主)であることを強調しているので、初めにおかれたのでしょう。メシアのギリシャ語訳がキリストです。従って、「イエス・キリスト」という言葉は「救い主イエスさま」という意味です。

マルコによる福音書

他の共観福音書はマルコをもとにして書かれています。マルコにはイエスさまの誕生、幼少時代のことは書かれておらず、最も大切だと著者が信じるイエスさまの十字架の苦しみと死の出来事に多くのページを割いています。このイエスさまの苦しみと死、そして復活こそ罪人である人間の救いとなる出来事(福音)だと強調しています。書かれたのは紀元70年以後と考えられています。マタイは80∼90年ごろ。

ルカによる福音書

著者のルカは、イエスさまの出来事が天地創造から終わりの救いの完成の時に至るまでの歴史の中心であることを強調しています。従って、イエスさまの誕生、生涯及び十字架の死、復活、更に聖霊降臨(教会の設立)への期待という書き方で、イエス・キリストを現在の出来事として読者に感じさせ、更に将来へと目を向けさせます。つまり、イエス・キリストの出来事以来、いろいろな困難な事件はあっても、歴史は新たな段階へ入ったのだから希望をもって生きて行こうという励ましが感じられます。
文章は流麗であり、著者の教養の高さをうかがわせます。使徒言行録も同じ著者が続編として書いたものです。書かれたのは紀元80年-90年頃でしょう。

ヨハネ福音者

ヨハネ福音書は、共観福音書と大きく異なっているので、第四福音書とも呼ばれています。全体として象徴的な表現が多く用いられています。「光と闇」「命と死」など。また、「私は世の光である」「私は良い羊飼いである」という聞きなれた表現もあります。イエスさまのなさった奇跡は、「しるし」と呼ばれています。共観福音書と比較しながら読むと、イエスさまの姿がより深く理解できます。イエスさまが神の子として天から下って人となり、神の御心を人々の間で行った方であり、真理であることを強調しています。真理であるイエスさまを信じることは、闇でなく光を、死でなく命を選び取ることなのだと強調するのです。書かれた年代は90年代後半でしょう。

ローマの信徒への手紙

キリスト教を世界の宗教にしたことで知られるパウロが、当時の地中海世界の中心であるローマにある教会に宛てて書いた手紙です。ローマは、パウロにとって未知の教会ですから、自己紹介と、自分の信じる信仰理解を筋道立てて書いています。そのため、初めて読んだ人にとっても理解しやすい内容です。同時に、再読すると更に深みが出て来るという味わい深い手紙であり、教会の歴史に通じて大きな影響を与えてきました。
中心は、「神さまは善行をたくさん行った人を救って下さるのでなく、神さまの独り子イエスさまが示された『神さまの恵み』を信じる人を救って下さる」という信仰です。「神さまの恵み」とは、どうしても罪を犯してしまう私たち罪人を愛し、そのために命を捨てて下さったイエスさまの愛に表されていると言うのです。これは人間の常識を覆す驚くべき愛なのです。同時に、人間を自由な喜びに導く愛でもあります。書かれたのは、紀元57年頃。

コリントの信徒への手紙

これもパウロの手紙です。コリント教会は、ギリシャのアテネの近くにある教会で、パウロが設立したものです。
ところが、パウロが去った後、いろいろな問題が起こってきました。一つには、信仰理解の問題であり、また会員同士の対立、更には財産争い、結婚の問題など倫理に関するさまざまな問題が起こって来たのです。その渦中にあってパウロは苦しみます。パウロは、人間が経験するすべての問題を経験した、と言われるほどです。
これらに対して、パウロは終始「キリストの十字架の愛」を中心にして語り、具体的な問題に対しては、寛容に、ある時は厳しく語ります。しかし、なかなかコリントの教会は受け入れません。むしろ、パウロと教会員は対立します。そこで、パウロは、「涙の手紙」と言われるほど痛切な思いで、新しく手紙を書きます。そうして、ようやく和解に至り、共に喜びを分かち合うことが出来たのです。従って、2通の手紙になります。紀元52‐53年頃。

エフェソの信徒への手紙

エフェソは大都会であり、ここにパウロの設立した教会があり、小アジア宣教の拠点でした。内容はパウロ的ですが、著者はパウロではありません。おそらく、パウロの流れをくむ有力信徒によって、90‐100年に書かれたものでしょう。
「キリストの体である教会」という言葉を用いて、教会とは何かを懇切に示します。教会は、ユダヤ人と異邦人という壁を打ち破って、新しい人を造りあげ、平和をもたらす場所であるというのです。また、パウロの「信仰によって義とされる」という考え方を「神さまの選び」という観点から展開しています。興味深いのは,「家庭訓」が夫、妻、奴隷、子に対して書かれている点です。全く同じような言葉がコロサイ書にもあります。更に深められていると言えます。「光の子」として「闇の子」と戦えと言い励ましもあり、この世を「光の子」としてしっかりと歩もうと言う勧告的な手紙です。

フィリピの信徒への手紙

パウロが書いた手紙で、「獄中書簡」と呼ばれます。たぶんエフェソで捕らわれていた時に書いたものでしょう。まだ、未決囚として、釈放されるか、死刑を宣告されるか分からない不安な状況にありながら、「喜びの手紙」と言われるほど、喜びに満ちた内容です。
フィリピもパウロが設立した教会で、終始変わらず純粋な信仰を保ち、またパウロの伝道旅行を支え続けて来た教会です。その感謝の心が執筆の動機なので、パウロの個人的な暖かさが文面に輝いています。それでも、いつも、個人的なことを語っても、神さまのみ言葉を伝える使徒としての言葉になっていく様子がうかがえます。書かれたのは、紀元53年頃。

ヘブライ人への手紙

この手紙の著者は不明ですが、紀元90年中葉に書かれたものです。これは手紙というよりも、迫害と信仰の緩みに直面している人々への、勧告、慰め、励ましの説教と言えましょう。従って、「希望としての信仰」が強調されています。旧約時代のアブラハムと同様に、神さまの約束を信じて、この地上の生活を、天にある故郷を目指して旅を続けようと励ますのです。その際、永遠の大祭司である神の子イエス・キリストが、ご自分の地上においての苦難と死を味わわれた方として、私たちの苦しみを思いやって下さるというのです。
「アブラハム」「大祭司」など言葉で明らかように、旧約聖書とキリストを結び付けて、独特な論法で人々に慰め、励ましを与えようとしています。

ヤコブの手紙

1世紀の終わりから2世紀の初めに、ユダヤ人キリスト者が初代教会の指導者ヤコブの名を借りて書いたものです。内容は迫害と、この世の誘惑(特に富)の中にある信徒に歩むべき道を示した勧告的また道徳的な色彩を帯びた手紙と言えましょう。随所にハッとさせられる言葉が出てきます。
パウロの手紙が「信仰のみ」を強調しているのに対して、「行いの伴わない信仰は死んだものだ」と書かれているのは奇異に感じるでしょうが、「良い木は良い実を結ぶ」「信仰は善い行いを生む」とパウロ主義者と呼ばれるルターも書いています。「信仰と行い」の関連について深く考えるきっかけを与えてくれる手紙です。

ペトロの手紙

二つに分かれていますが、第一の手紙は、小アジアで迫害にあっている信徒たちに信仰を守り、主が歩まれた道を辿るようにとの励まし、勧告がなされています。著者は不明ですが、執筆時期はローマ皇帝ドミティアヌスの迫害の時代90年代半ばでしょう。
ここでは、主がそうであったように、権力に反抗するよりも、忍耐を、「悪に対して善で報いるように」と勧めます。天にある救いの望みを信じて生きよと励ますのです。
第二の手紙は、別の著者によって紀元130‐150年頃、書かれたものです。ここでは新しく教会の危機となった間違った教えを語る偽教師に警戒するようにとの勧めが語られています。終末の到来については、遅れているのでなく「一人も滅びないように」という神さまの愛の忍耐の時なのだと説明しています。

ヨハネの手紙

内容はヨハネ福音書に似ています。しかし、それより少し遅く100年前後に別の著者によって書かれたと思われます。三つの手紙は同一の著者と思われますが定かではありません。
第一の手紙が最も長く、最も読まれています。キリストが先ず私たちを愛して下さったのだから互いに愛し合いなさい、というキリストの愛から生まれる兄弟愛を強調しています。愛について多くのことを学べます。それと同時に、間違った教えを語る反キリスト(偽教師)に警戒するよう呼びかけています。この点はペトロと同じ事態に出会っています。

ヨハネの黙示録

黙示録とうのは「秘められたものが明らかにされる」という意味です。ドミティアヌス皇帝のもとで迫害に苦しんでいた教会に対して、神さまの秘められたご計画を示し、慰めと希望を与えようとする書物です。
「世の終わり」と「新しい天と地の出現」というこの世界を超えた神さまのご計画を描くものなので、天使と悪魔の戦い、天変地異など、他の聖書と全く違う視覚的イメージが用いられているので戸惑います。しかし、注意して読むと、この世の権力や暗闇が、どんなに力を振るっていても、「初めであり、終わりである」神さまが、本当の支配者であり、勝利者であるということが明らかになってきます。しかも、イエス・キリストによって洗われた群れが、賛美の声をあげながら、新しい都に向かって喜びに満たされて、歩を進める姿が浮き彫りにされて来ます。この群れが教会の姿と二重写しとなり、教会に希望を与えたことは間違いありません。
紀元90年後半に、パトモス島に流刑となったヨハネと名乗る教会指導者が書いたものと言われています。