異常ありません|私に与えられた力

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皮膚科、歯科、消化器科では胃カメラ・大腸検査・CT、眼科は2院、そして掛かりつけの医院。ここ一ヶ月の間、スケジュールを調整しながら、病院で積極的に受診してきた。注射やカメラ診察等の度に聞かれることがある、「アレルギーはありませんか?」「アルコールで炎症が起こったりしませんか?」「薬や注射で異常を感じたことはありませんか?」等々。私の答えはいずれも「ありません。」病院としては予め確認することで患者も病院も守ることができるために、必須の事項なのだろう。私自身も繰り返される問診も「いつもの儀式」というような受け止め方をしてきたように思う。しかし短期間に繰り返し質問され、その度に「何もありません」と答え続けていて思うのだ、「何もありませんと答えられることって、なんてありがたいことなのか!」と。アレルギーがあるからと検診を躊躇(ちゅうちょ)している人がいるのかもしれない、アルコールに反応してしまうからと注射に恐怖する人がいるのかもしれない…。70才を過ぎても「何もありません」と言える身体をもらっていることに、そして「今の所どこにも異常はありません」と検査の結果をいただいて、改めて他界した両親に感謝である。
定年退職を前にして、様々な検査を受診したのには訳がある。私が牧師になった頃は、小さな教会であってもその地に定住してくれる牧師がいた。しかし今、新任であっても二つや三つの教会を兼任するのは当たり前の状況になっている。じっくり腰を据えて聖書と向き合う時間も殆どないのではないかと想像するに難くない。だからこそ定年を迎えた私の経験が彼らにとって少しでも助けになるのならと、準備をしてきた。とはいえ寄る年波には勝てないので、せめて迷惑にならないように「元気な体と心」で助けたいと願い、定年前に「身体検査でお墨付き」を頂こうと受診したのだ。
キリスト教の初期、アンティオケアに成立した教会は、ユダヤの地に飢饉が起こっていると聞き支援を決意した。「そこで、弟子たちはそれぞれの力に応じて、ユダヤに住む兄弟たちに援助の品を送ることに決めた。」(使徒11:29) 支援の草分け的な出来事である。私に出来る(力に応じた)支援は、「若い牧師たちが研鑽(けんさん)する時間を作れるようにしてあげること」、ここ数年の私の祈りの中心はそこにあった。「異常ありません」という身体で何年出来るかは分からないが、主が「もう良いよ」とおっしゃるまでは、「力に応じた」働きを続けたいと願っている今の私である。
それぞれが「力に応じて」助け支え合えば、皆が素敵な明日を迎えられると思いつつ、後一ヶ月で九州に向かいます、市川の地で支えてくださった皆様に感謝しつつ。