助けを借りて|パラリンピックと仏教の法話から

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「『私はパリ・パラリンピックに参加しない』今月、車いすフェンシングのベアトリーチェ・ビオ(イタリア)はメッセージを添えた画像をインスタグラムに投稿した。女子フルーレ個人で3連覇が期待される選手だ。記者はどきっとさせられた。だが、投稿はこう続いた。『私は競いにいく』勝敗にかかわらず、障害を乗り越えて大舞台にたどり着いたことに意義がある。そうした社会の受け止め方に一石を投じようと、国際パラリンピック委員会(IPC)が企画したキャンペーンだった。」(8月28日朝日新聞朝刊)少し長い引用になったけれど、競技種目である以上、参加のための努力を称えるだけではなく、様々な人々がいて競い合うことを目的とする以上、スポーツとして評価され勝者に向けられる特別な称賛を与えられても然るべきであるだろう。殊にパラリンピックは、「助ける人」の姿を直接に目にする機会でもある。日頃忘れてしまっている「助けられて生きている」ことを思い出させてくれるからだ。

先日、休暇をいただいて京都の寺院巡りに出掛けてきた。今年初めて足を運んだ知恩院(ちおんいん)で、偶然法話を聞く機会があった。知恩院は浄土宗の総本山で、法然が開祖である。その弟子親鸞は更に浄土真宗の開祖であり、ひたすら法然の教え「念仏のみ」を伝えようとした(日本仏教学院:仏教ウェブ入門講座より)という。親鸞については時にパウロと対比され、論文も多々見られるほど共通項を見出すことができるので、法話を聞きながら、時折自分が説教しているのではないかと思うところもあった程である。その中で心に留まったことがあった。「出来る時に、出来る事を、助けを借りて」と言われ、しかも「助けを借りて」こそが最も大切とはっきり語ってくださったことである。「神が助けてくださること、そして私たちは誰かの助けを借りなければ生きて行けないこと」を自明のこととして生きてはいるものの、はっきり語ることはなかったかもしれないと自らを振り返って気付かされた時でもあった。

パラリンピックの競技に向かう選手たちは、まさに「出来る時に、出来る事を、助けを借りて、今私はここにいる」ということを、その姿を通してはっきりと見せ、教えてくれている姿に他ならない。「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」(詩編121:2)と神は告げてくださっている。神にそして隣人に「助けを借りて」、胸を張って生きて行こう。

ただし、「夏休みの宿題は、先ず助けを借りずに自分でやらないとネ」と子どもには教えつつ。