神様のトリセツ|聖書は信仰のマニュアル?
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2月に買い替えた軽車両、施設の学童キャンプまでには「オーナーズマニュアル(車の取り扱い説明書、以下トリセツと記す)」を読んで慣れておかなければと思っていたが、A6版で350頁。動かすために最低限必要なことに目を通した後は、「暇な時に目を通そう」とトリセツは車のダッシュボードに。結局、目を通さないままキャンプに向かった。
キャンプ最終日、オートマチックキー(以下キーと記す)が作動しないという不具合が発生。原因は電池切れ?それとも他に何か原因がある?焦る気持ちとトリセツをもっと丹念に読んでおけばよかったという後悔が入り混じり、絶望的な思いにかられたまま時間が過ぎていく。このままでは車を動かすことが出来ず迷惑を掛けてしまうと焦る私。部屋を片付けつつあれこれと方法を考えるが思いつかないまま、再度挑戦。すると何とか点滅しギリギリのところで動かすことが出来た。ホッと胸を撫でおろしつつも、トリセツを読んで備えておかないとダメだよ」とお叱りを受けたような時だった。
様々な製品には分厚いトリセツが付けられている。「様々な苦情に対応していく内にトリセツは分厚くなっていった。」(7月18日フジテレビ・『わたしのバカせまい史』バカリズム)確かに一理ある説だ。「スイッチが入らない時は、コンセントに電源が差し込んであるか確かめてください」等という文を読むと、もしかしたら「スイッチが入らない」という苦情でもあったのかもしれないと想像する。些細な事でも苦情が絶えないからこそ、メーカー側は予めトリセツに苦情が来ないようにと記載する内、結果として分厚くなったのだろう。
読まないけどトリセツという存在を知っている私たちは、聖書に対しても恵みを得るためのトリセツと受け取ってしまってるのではないか。かつて十戒を与えられたイスラエルの民も、様々な苦難を経て神の救いから離れてしまったと自覚し、救いを取り戻すために律法を細分化し「トリセツ化」してしまった。イエスが来られたのは、神の救いをもたらすためであって、私たちに救いを得る方法、即ちトリセツを与えるためではなかった。だからこそ、イエスが教えられた重要な掟「神を愛すること、隣人を自分のように愛すること」(マタイ22:37~等)というのは、救いを得るための「トリセツ」ではなく、私たちの地上の命を豊かにするためのトリセツにほかならない。
神様にトリセツはありません。でも聖書の言葉は、喜びの人生のためのトリセツとなるのだと感謝し、日々受け取りつつ過ごしたい。