その祈りは小さいのか|全ての祈りは神の前に等しい

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「天のお父さま、一日(ヒトヒ)の恵みを感謝いたします。きょうも子ども礼拝に集うことができ、ありがとうございます。」施設の学童礼拝の始まりに司会者がこう祈り、「この小さなお祈りをイエスさまのお名前によってお祈りします。アーメン」と祈りを締めくくる。(赴任当初は職員の司会で行われていたが、現在は子どもたちが司会を担当。)数年経った頃、私はひとつの疑問を施設に投げかけた、「小さい祈りというのはどういう意味なの?」と。要するに、「小さい子どものお祈りを、神様聞いてください」という意味なのか、「お祈りの内容は小さいけど、神様聞いてください」という意味なのかと問うたのだ。そして考えて欲しかったのは、「お祈りに小さいとか大きいとかあるのだろうか」ということでもあった。

こどもたちが歌う讃美歌にも、「小さい」という言葉が頻繁に用いられる。今月のK保育園で用いられた2曲にも、「この花のように うつくしいこころを 神さまください 小さなわたしにも」、「わたしたちは小さくても お守りなさる神様」と「小さい」が用いられている。「小さくても神様は等しく恵みを与えてくださる」という意味だろうが、「この社会は小さいということで等しく扱われない」という背景が存在することも示唆している。共観福音書の全てが子どもを祝福する出来事(マタイ19:13~、マルコ10:13~、ルカ13:15~)を取り上げているのも、そのような現実があったと推測できるし、現代社会も状況こそ違えども同様のことは根深く残っていると思えてならない。事や物の大小・強弱等々、あらゆることにおいて私たちは違いを見出し、その先入観で「優劣・貧富」という価値観を付加してしまっているのではなかろうか。

こどもたちが生きている世界は、未だ未だ狭い。「お友だちと仲良くしたい、お手伝いしたい」と祈るなら、それはその子の全てであるかもしれない。大人の世界からすれば取るに足らない小さな祈りかもしれないが、主イエスはその祈りを、その子のすべてと受けとめ聞いてくださるに違いない。その眼差しは、「こどもたちは年相応(例えば1才児は1才児、5才児は5才児)の役割を、精一杯務めているだけのことなのだ」と見詰めてあげられるのではなかろうか。

施設への前述の問いの後、礼拝のお祈りから「小さい」という言葉は無くなった。どんな議論がなされたのかは記憶にないが、私の祈りも「大きい・小さい」などと自分で判断せずに、全てを祈りとして臆することなく捧げていきたい。あとは「神様が御心のままに判断してくださる」だろうから。