その音は騒音?それとも・・・|良き知らせは良き音になって

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コロナ禍最初のイースターの日(と今週も同文で始めることにしよう)、次男夫婦に新しい家族が誕生した。私たち夫婦にとって二番目の孫である。嬉しさもあったが、それ以上に「感染」の二文字の心配の方が大きかった。孫に会えたのはそれから2年半後の初秋、休暇を利用した帰省の時であった。翌年も同時期に帰省し「おじいちゃん」と言ってくれるのが嬉しかった。そして今年4月、次男が北海道から九州へ転勤となり、移動の途中数日間帰省することになった。到着の日、私は二階の自室で作業していたが、2匹のワンコが吠える声、そして「ドンドン」と歩く音が響き、次男家族が到着したことが分かった。以前来た時も、こんなに歩く音が聞こえていたかなぁと思いつつ、同時にその音だけで成長したことを知った。大人三人の日常生活は、殆どの時間を静寂が支配する、時折ワンコが吠える時を除いて。そいう日常に突然響く子どもの足音や止まることのない声は、静寂な水面に突然さざ波、いや波風が立つようなものである。だが私には心地よく響き、4人の子育て真っ最中の頃の気分を思い出させてくれる。ただし、あの頃に比べると気力はかなり衰えていることも感じつつ。

市川教会に赴任した時、子どもの姿は無く、静かな中で礼拝が守られていた、我が家の子どもたちの賑やかな声を除いては。しばらくして子連れの家族が礼拝に出席されるようになり、一気に子どもたちの声や足音が、礼拝中も二階の部屋から聞こえるようになると…。二階の集会室に分厚い絨毯(じゅうたん)を敷く、戸袋を防音対策の壁に造り替える等対策を講じる一方、私の何処かには「子どもたちの声や足音は未来からの音、礼拝のBGM」という思いはあったが、それは封じ込めることにせざるを得なかった。子どもがいると家中に響く様々な音、果たしてそれは…。

キリストの出来事は「良き知らせ」(ευαγγελιον)と受け取り聖書は整えられた。その言葉を「(幸)福な音」と訳したのは、1737年頃に中国語に翻訳された聖書であった。漢訳聖書のマタイ4章23節(御国の福音を宣べ伝え)に用いられた言葉が、そのまま日本語にも用いられたのだという。(鈴木範久著「聖書の日本語」岩波書店参照)良き知らせを「音」と表現したことを、最初の日本語の翻訳者たちは大切にし、今も私たちが大切にし続けていることは大きなことだと思えてならない。

孫の短い滞在中に響き続けた音は「福音」であった。次はいつ聞けるのだろうかと心待ちにしているが、我が家の2匹のワンコは孫が居なくなった後、泥のように眠っていた。彼らには「福音」ではなく「恐怖をもたらす騒音」でしかなかったようだ。