大丈夫は、大丈夫じゃない|そばに居てくれることの安心

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絵本「だいじょうぶ、だいじょうぶ」(いとうひろし作・絵、講談社)に描かれるボクは、いつもおじいちゃんと一緒だ。黙ってそばにいてくれる。危機に陥ると「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とだけ言ってくれる。決して「だいじょうぶか?」と尋ねる訳ではなく、「一緒にいるから安心しなさい」という意味で、そう言ってくれるのだ。「だいじょうぶだよ」と声を掛けてくれる人が、いつもそばにいてくれたらどんな時も安心して生きることができるということが伝わってくる。

母に生前電話をすると、開口一番「元気でいる?大丈夫?」と、お決まりの言葉が受話器から聞こえてくる。私もお決まりの「元気だよ、大丈夫だよ」と返事して、次の会話に向かう。15才から家を離れたので母が亡くなるまで半世紀、それは繰り返された。母の手前、時には大変な状況であっても、それを説明するのに時間はかかるし、仮に困っていることを告げた所で逆に母を困らせるだけだからと「大丈夫だよ」と言うしかなかったのも事実であった。「大丈夫」には、相手を気遣う気持ちが沢山入っているのは確かだが、その一方、イジメや理不尽な状況に置かれた子どもたちが親に向かって、被災し困難で苦しいけれどもほかの人の事も慮(おもんばか)って等々、「大丈夫」と言ってしまうこともある。多分母は、言葉だけでなく声の質や歯切れの善し悪しで私の変化を察していただろうが、細かなことを聞いてきたことがなかったのは、私を信頼してくれていたからではないかと、間もなく7年目の命日を迎える母を偲びつつ思う。

「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をしてほしいのか。』盲人は、『主よ、目が見えるようになりたいのです』と言った。」(ルカ18:40~41)イエスの許に来る人は助けを求めているということが前提にあるとはいえ、「何をして欲しい?」あるいは「何か私にしてあげられることが有るかな?」という言葉を投げ掛けてあげられたら、遠慮も忖度(そんたく)もなく素直な気持ちを引き出してあげられるのではなかろうか。

前述の絵本の最後は、おじいちゃんが病に伏した場面、ボクは「今度はボクの番」と、おじいちゃんの手を握り「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言ってあげる。そばにいて「大丈夫」と声を掛けてくれた存在を知った心は、きっと誰かのそばで「大丈夫だよ、私が居るから」と言える人になっていくに違いない、あの絵本のボクのように。