退いて・・|日常を離れて信仰を練る

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「タイシュウ」と言われてどんな漢字を思い浮かべるだろう。せいぜい「大衆・体臭」と思い出すくらいであろうか。広辞苑を調べても、その他には「対州・対酬」という漢字が項目にあるだけである。しかし「退修」という漢字を教会関係者なら即座に思い浮かべることだろう。「退いて、修養する」と文字が意味しているごとく、「日常を離れて自分を磨こうとすること」とでも言えようか。福音書には主イエスが「人里離れた所へ出て行かれ」(ルカ4:42)、「祈るために山に行き」(ルカ6:12)等と記されており、主もまた日常を離れて自分を見詰め直し、そして恐らく託された使命を祈りつつ確認されておられたのだろう。

「退く」という言葉は、余り良いイメージはない。「敗退・退出・引退」等を想像するからかも知れないが、「ちょっと休みづらい。でも休みたい。そんな板挟みで悩んだ時は、順序を逆にする。まず休み、そして考えるのだ。(岡田悠)」(朝日新聞10月14日「折々のことば」より)とあるように、「置かれている状況を離れる」ことで状況の打開を図るということは積極的な行動とも云える。その意味で、日常を離れて修養する時として、教会は積極的に「退修会」を取り入れて来た歴史がある。

先日、関東に在職する教職者の「退修会」が5年振りに開催された。互いの近況を話し、ネット礼拝の事、牧師の育休・産休の事等々、決議する場ではないので自由に意見を交換し合った。夕食後には時間が許す限りひざを突き合わせての親交の時、もちろん「シュも共に」であり楽しい時であった。

危機に陥った時、神は人に「退く」という道を備えてくださる。父の祝福を兄エサウから奪い取ったヤコブは、叔父ラバンの所に逃げた。道中、野宿した折、天から伸びた階段と何処に行っても主が共にいるという約束の夢を見た。退いたからこそ彼は祝福の意味「主が共におられる」ことを知ったのである。(創世記28:10以下)悪王アハブ王に神の裁きを告げたエリヤを救うため、神は人里離れたケリト川のほとりに住まわせ、カラスにパンと肉を運ばせ養ってくださった。人間としての尊厳もプライドも捨てた所で、彼は神が養ってくださることを知ったのである。(列王記上17:1以下)状況を打開する道としてその場を離れることを良しとすることを、ヨセフ・モーセ・ソロモンにも経験させられた神は、短い時間ではあるが「退修会」という場を設けて、今を生きる私たちに与えてくださったのだろう。現役牧師として最後となった会に参加でき感謝であった。

文中の「シュ」に関しては、どんな漢字を充てるかは皆様のご想像にお任せする。