ペナルティー|ラグビーが教えてくれる仲間の存在
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レフェリーがホイッスルを吹き反則があったことを告げる。反則に対し相応のペナルティーが課せられる。テレビでは淡々と「惜しいですね、あそこでペナルティーにならなければ、一気にゴールまで押し込めたでしょうけどねぇ」と解説しつつも、表情には悔しさを滲ませている解説者が映される。応援している者も同じ気持ちになり、「ゴール直前まで迫っていたのにそこで反則するかなぁ」と無念で一杯になる。フト思う、「反則をとられた選手も悔しいだろうし、仲間に対して申し訳ないと思っているだろう。仲間たちも、どうして大事な所で反則なんかするんだと思っているのではないか」と。しかしフィールドの選手たちをみると、どの選手も冷静に次のための姿勢をとっている。4年に1度開催されるワールドカップの日本の試合を応援しながら、選手たちのそんな姿が目に入った。
「ペナルティー」とは罰則であって、罰則とは違法行為に対して与えられる刑罰や過料である。このことから、ペナルティーと聞くと、私は「思うようにできなかった、失敗した、悪いことをしてしまった」とマイナスのイメージを無意識の内に思う。その結果、ペナルティーを取られてしまった選手は、バツが悪い思いをしているのではないかと勝手に想像してしまっていた。しかし、彼らは知っているのだ、僅かな差でボールを取れず前に落とした(ノックオンの反則)ことを、相手にボールを取られまいとする余り倒れてもボールを離せなかった(ノットリリースザボールの反則)ことを、様々な反則のすべてはチームのために、応援してくれる全ての人のために必死になった結果でしかないということを。だから誰を責めるのではなく、むしろ「そのペナルティーを帳消しにしてやる」と仲間をかばうように次に向かっているのだ。ペナルティーはマイナスではなく、不可抗力の出来事、そう、私たちの人生にも沢山あるではないか。限界を超えた練習をした日々、精一杯生きてきた日々、思うようにいかないこともあるし、良かれと思っても失敗に終わることもある。「ペナルティー」になったからといって悔いることはない、みんなでそれを補ってあげる。ラグビーの試合観戦から、そんな気持ちを汲み取ることができたなら、私たちの人生も、もっと楽しくそして豊かになるはずだ。何故なら、主ご自身が「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)と言ってくださり、私たちの労苦を一緒に担ってくださるのだから…。
試合終了、「ノーサイド」の笛が吹かれると、ただひたすらに試合と向き合った者たちが互いを称え合う、ペナルティーのことなんか忘れて良いんだよと言うかのように。