学校とお仕事|祈りはキリスト者のお仕事

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「こどもは学校が仕事。おとなは仕事が学校。」(5月16日朝日新聞「折々のことば」)小学3年生が呟(つぶや)いた言葉に「仕事ですと堂々といえる学びならいいな。学びのいっぱいある仕事だったらいいのにな」と解説。読みながら、保育園の礼拝で子どもたちが祈る言葉、「おともだちとなかよくあそんだり、いっしょうけんめいおしごとができますようにおまもりください」という一節を思い出した。初めて関わった保育園だったので、当初「お仕事」と「園児」とが結びつかず、しばらくは違和感を覚えたものだった。「仕事=労働して報酬を得る、大人の役割」という固定観念があったからだが、子どもたちの祈りを聞く内に、「大切なお仕事」は報酬を得るかどうかだとか、大人子どもに関係ないこと、逆にまた、「学校=子どもが通い学ぶ所」ということにも固定観念を持っていることに気付かされた、「家族以外の社会に触れることも成長のための大切なお仕事であるし、学び舎も年齢性別も無い学校もある」と。

「耳のある者は聞きなさい。」(マタイ11:15等)群衆に向かってイエスは時々そのように語り掛けられる。そこにいる人々は、イエスの話を聞きたいと思ってやって来ているし、当然「耳」はあるのだから、「耳のある者」とは随分な呼び掛けである。これは「イエスのユーモアだ」と解する向きもあるが、皮肉とも取れるし熱意とも取れる。正解はイエスご本人に聞いてみないと分からないが、少なくとも群衆に聞いて欲しいためのイエスの工夫の表れであろうか。教科書も黒板もないし、群衆はノートやメモ帳を持っていた訳でもないが、そこにはイエス先生を囲む「学校」が存在したのである。そして弟子たちには、祈るために彼らを離れていく姿を通して、「祈ること」の大切さを教えられた、「祈ることがあなたがたの務め(お仕事)なのだ」と言わんばかりに…。

だからこそイエスが祈り終わった後に弟子たちは願ったのである、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください。」と。(ルカ11:1)こうして教えられたのが「主の祈り」である。そこには隣人のための、全ての人のための「執り成し」がなされており、この祈りを行うことはキリスト者の「お仕事」ではないかと思えてならない。かつてルターは「キリスト者は全て祭司である」と教えたが、主の祈りを唱える時に、私たちは祭司の務めをはたしていると言っても過言ではない。

学校・仕事場・全ての場所で、主が教えてくださった祈りを唱える務め(お仕事)に励みたい。