余白と生きる|見えないところに目を注ぐ

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4年振りにフルバージョンの祝会を行えた今年のイースター。「祝会のフルバージョン?」と言われそうだが、要するに「あれはダメ、これは難しい」などとは言わず、「行いたいことに制限を付けない」と云う程度のものでしかない。そんな中で準備を始めたのだが、結果は4年前とほぼ同じプログラムに落ち着いた。

「会堂正面を向いて食する」、いわゆるコロナ感染症対応型食事風景に始まり、プログラムも進んでいく。笑い声があふれ、拍手が会堂中に響き、一緒に讃美歌を歌い、祈りをもって1時間半の祝会は終了した。3年前、緊急事態宣言が出されて迎えたイースターでは、祝会に未練がある私は「リモート祝会」を提案し、10名ほどの方が参加してくださった。遠方より息子も参加してくれて、「リモートだからこんな祝会を行えるのだなぁ」と思いつつも、物足りなさを覚えた記憶がある。画面に笑顔は見えても皆一緒の笑い声は聞けない、雑談はないし画面に集中し続けなければならならず、会を終えると数秒後には目の前から皆さんの姿が消えてしまう。要するに「余白」の部分が全くないのだから、物足りなさを覚えても仕方なかったのだと、今年の祝会を終えて理解できた。

リモートは確かに新しい世界であるけれども、余白を閉じ込め、瞬時に参加者と無関係の世界に戻ってしまうところには一体感は生まれない。隣の人とおしゃべりをし、時には窓外から聞こえるサイレンを聞き、動いてる人の姿を目で追い、終了しても片付けながらのおしゃべり、そういう余白の部分が接着剤となって一体感を生み出す。もしかしたら余白こそ実は中心であり核心と言って良いかもしれない。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(2コリント4:18)神について、そして信仰について語られている言葉であるが、私たちの日常生活においても、同様である。まして「コロナ禍」を経験した私たちは、見えないものの大切さに気付かされたはずである。「不要不急ではない」とされてしまった芸術・スポーツ、そして大切な人々と共に過ごす時が、どれほど大切であり、人生を豊かにしてくれているか、いや生きる意味を与えてくれているかを「知った」のだ。この思いを大切にしたい。何より、私たちが生きている限り、「無駄なこと、無駄だったことはひとつもない」と心に刻みたい。

祝会で弦楽四重奏を行ってくださったH家。3年半ぶりの素敵な演奏に、長い年月であったとしみじみ思った時でもあった。感謝。