もう良いよ|受難週に聞く神様の赦しのことば

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「父よ、彼らをお赦(ゆる)しください。自分が何をしているのか分からないのです。」(ルカ23:34)十字架上でイエスは七つの言葉を語ったと言われているが、その最初が、今、記した言葉である。聖書には続いて「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」とあるので、訳も分からず「犯罪人の遺留品」を分け合っているローマ兵たちを指しているのだろう。しかし、聖書は更に「民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑っていた」と記されているので、その場(ゴルゴタの丘)にいた全ての人々が「自分が何をしているのか分からないと語った」という意味であって、その彼らのために神様に赦しを願ってくださったのがこの言葉であろう。そして「父よ、彼らをお赦しください」という言葉が、七言の最初の言葉として受け継がれているのは、イエスの十字架の最大の意義が「赦し」にあるからだということでもある。それはまた私たちにとっては、「あなたは赦されている」ということを意味しているが、そのことをどの様に、どの程度私たち実感しているのだろうか。

話しは変わるが、子どもたちの間では度々諍(いさか)いが起きる。時には手が出ることすらある。その度に仲介するのは大変だが、最後はどちらか(どちらも)「もう良いよ」と言って仲直りすることが多い。そう、「もう良いよ」は「赦してあげる、忘れてあげる」ということであって、実に優しい言葉である。ともあれ、「もう良いよ」のひと言で、子どもたちはいつものように過ごせるようになるのだから、それは凄いことである。

翻(ひるがえ)って大人はどうだろうか。子ども程、度々の諍いは起こらないが、簡単には「もう良いよ」とは言わない。また、努力しても報われないことも多いし、困難に耐え忍んで生きてきたこともあって、自己嫌悪や自己否認に陥ることもある。更には「生きること」を積み重ねていけば、沢山の後悔を抱えて生きているのが大人である。そんな私に、そしてあなたに、十字架上の主を通して神様は「もう良いよ」と言ってくださっているのではなかろうか。だから受難週のこの時、十字架を仰ぎつつ、あのこと、このことを思い出してしまう私が、「もう良いよ」との声を聴けるなら幸いであろう。

地上でイエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:23)と語られたことを思い起こす。「もう良いよ」と告げてくださる神様は、それだけでなく私たちを休ませ、背負ってくださる神様なのだと、十字架を見上げて心に刻むことができるように、受難週の一週間を過ごしたい。