音読の勧め|声を出して聖書を読んでみよう

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2008年7月20日、市川教会は一つのチャレンジを開始した。それは「礼拝前10分を用いて聖書の通読を目指す」というもので、旧約聖書39巻929章、新約聖書27巻260章、合わせて1189章を全て読み通すのが目標であった。これは聖書協会が提唱している「聖書リレー通読」を倣ったものである。聖書協会の提唱では、昼夜問わず (約100時間) 読み続けるというものだが、私たちの教会では「昼夜問わず連続」は難しいと判断し、前述の方法に切り替えてチャレンジすることにしたのである。そして2018年5月、513週目(トータル85時間30分)に全巻を読了した。通読は当然「音読」である。音読された聖書の言葉に耳を傾けていると、黙読では素通りしてしまうような言葉が気になったりして、なかなか良いものだと思える通読の時間であったし、何より10年も続けていると、礼拝前のルーティンとしてすっかり定着していたこともあって、一ヶ月後に第二回目のチャレンジを決意し、現在は二度目の詩編を読み進めている。

通読の時間から私が教えられたことがある。それは「たかが音読、されど音読。小難しい註解書を読んで悩むくらいなら、ゆっくりと音読すること」という事である。ちょっと言い過ぎだと言われるかもしれないが、実際に声を出して読んでみると、「この箇所でイエス様はどんな気持ちで語られたのだろう?」などと考え込んでしまうこともままあるからだ。あるいはまた、旧約聖書の律法が書かれている箇所や民数記の氏族毎の記述などは単調で黙読では思わず眠くなってしまうような箇所も、音読することで神の前に整えられ選ばれた民の姿というのが浮かんできて、リズム感ある記述が実に心地良く感じられる(勿論これは個人の感想なのは言うまでもないが…)のである。子ども讃美歌「ナザレのおうちから」の1節に「毎朝ナザレのお家から、ご本を読む声 聞こえます。あれは神の子 エス様が、聖書の言葉を熱心に学んでおられる声でしょう」とあり、「読むイコール学ぶ」と表現されているのも、作詞者が私と同じことを感じたからではないかと、子どもたちが歌う讃美歌を聞きながら思うのである。

そもそも信仰は、神の言葉を聞くことから始まる。旧約の父祖たちや預言者たちは、神から手紙をもらった訳ではない。言葉を聞き取り、言葉で伝え、語り継がれてきて後代の人々が文書にしただけのことなのだ。「基本は音読にあり」とは信仰の基本に帰るということに他ならない。「ご本を読んで主が学ばれた」姿を思い浮かべながら、老眼をこすりつつ音読に精を出すとするか。