ご褒美

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(年に一度の牧師休暇、今年は長男が牧会している下関で数日過ごし、土曜日に厚狭・日曜日午前中は下関、午後から直方で説教奉仕の機会が与えられた。)

「先生、私のこと分かりますか?」杖を突きながら笑顔でご婦人が声を掛けてくださった。「こんにちは!」と声を掛け直方教会に入ると直ぐに会堂内から数名の方が出て来られ、そして冒頭のお声がけを頂いた次第。一目見た時から私には、懐かしい方のお名前が浮かんでいた。直方教会を離任したのは36年前、年を重ねられたとはいえ以前同様に歓迎してくださったことが嬉しく、興奮気味の私はその方に「もちろん覚えてますよ!」と応じたが、次の言葉に唖然、「○子です。」それは私の記憶にある方ではなく、ご両親と一緒にいつも迎えてくださった、私とほぼ同世代のお嬢さんのお名前だったからだ。その方を「お母さん」と誤解してしまったことが一瞬にして理解され、改めて長い年月が経過したことを理解した。

直方教会には、初任地黒崎教会(既に宣教中止)にいた四年間の後半二年、兼任として関わらせていただいた。沢山のことを経験させていただいた教会ゆえに、説教前に様々な思いが浮かび、説教中もあの頃に戻ったかのような気持ちが湧き上がってきて、殆ど原稿にはないことが口をついてしまったのは少々ご愛嬌。ともあれ、現役としての私の牧師生活も残り二年半のこの時に、牧師休暇を利用し訪問・説教の機会を与えられ、心から感謝した次第であった。

下関滞在最後の日、長男夫婦と外食後の車中から夜景を眺めながら、私は思った、「36年を経て初任地の方々との再会を果たせたこと、玄関先で誤解だったとはいえ一瞬(既に帰天された方と)再会できたと喜びに浸れたことは神様のご褒美だったかな」と。パウロは「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:14)と記しているが、「お与えになる賞」とは何かについて具体的に述べていない。しかし、今回のことを経て、「賞」のご褒美のひとつは、「先に天に帰られた人との再会」だと、休暇に出る前に葬儀を執り行ったばかりだったので、そう思えてならなかった。

「神の恵み」と私たちは語り、同時に日常において様々な時に気付く。しかし中には「神様のご褒美」があって良い。直方・厚狭・下関の方々、繋いでくださったM牧師、そして迎えるために労してくれた長男夫婦、何よりも送り出してくださった市川の皆さん、私の今年の休暇は「ご褒美」で一杯だった。皆さんもご褒美もらってますか?