父の日に想う

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創世記にはイスラエルの父祖三人が登場する。アブラハムは神に召されて約束の地カナンに赴く。彼が百歳になって待望の息子イサクが生まれた。ところが数年後、神はイサクを焼き尽くす献げ物とするようにお命じになった。翌朝出発するまで、父親アブラハムの苦悩の夜は長かったに違いない。ましてや「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」と約束されたことと矛盾するのだから…。しかし彼は「信仰の父アブラハム」として神に従う生き方をイサクに見せることを選んだ。イサクは成長し双子の父親になった。彼は長男を可愛がったが、それは「長子の権利」を長男エサウに引き継がせ、神の祝福を家族で受け継ぐための父親の大切な務めであることを知っていたからである。しかし長子の権利の大切さを理解していたのは次男ヤコブであった。間違ってヤコブを祝福してしまったイサクだが、「神の祝福」は既にエサウではなくヤコブになされたことに従わざるをえなかった。いや、従うことが「父イサク」として出来ることだったのだろう。祝福そして長子の権利を得たヤコブには12人の男子が生まれ、イスラエル12部族の祖となった。彼は年を取ってから生まれた11番目のヨセフをかわいがっていた。兄たちはそのことが気に入らずヨセフをエジプトへ向かう商人たちに売ってしまい、父親には「野獣に食われた」と報告した。ヨセフを失ったヤコブは幾日も嘆き悲しんだが、諦めるしかなかった。しかし、飢饉が襲いエジプトから穀物を購入する際に、大臣となったヨセフに再会する。「神が先にお遣わしになった」というヨセフに招かれ、エジプトへと一族で移り住み、ヨセフとヨセフの次男エフライムに祝福を与えて生涯を閉じる。アブラハムもイサクもヤコブも常に人間として正しく生きた訳ではない。しかし子どもたちは父親の背中をみて、「神を信じる生き方」を学び受け継いだ。だからこそイスラエルの人々、そしてキリスト者にとっても彼らは「信仰の父祖」なのだ。

私の父が亡くなって10年になる。世界大戦後に二年間のロシアでの捕虜生活を経、私たち姉弟三人が小学生の時に交通事故で20日間生死の境をさまよった。寡黙な父であったが、いつも穏やかな笑顔を見せてくれていた。臨終前に私が帰るのを待ってくれていたが、予約していた飛行機に乗る朝、「康文は未だか!」といって息を引き取ったと聞かされた。遺言も信仰もないけれど、穏やかな父の笑顔こそが私が受け継ぎたいと願って今日まで生きてきた気がする。

6月第三日曜日、「贈り物をもらう」立場になったが、私は何を子どもたちに引き継げているだろうかと、送られてきた「美味しい飲み物」を眺めながら思う今年の父の日。