過程に目を注ぐ
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「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(ルカ119:5)木の上から眺めていたザアカイに、イエスは声を掛けられた。親しげに自分の名前を呼ばれることも、誰かが自分の家を訪ねてくることも、もう何年もザアカイの日常では起こり得なかったことだった。彼はユダヤ人でありながらローマ人に仕える徴税人であり、同胞からは「罪人」と呼ばれ交わりを拒絶されていたからである。「罪人」として拒絶されていた間、彼は孤独であり、それゆえに開き直った気持ちで、徴税人の務めを果たすことが、彼の生きる術であったことだろう。「名前を呼び、家に行く」、それだけのことなのだが、ザアカイからすれば、イエスに出会うまでの日々、苦しんできた過程への心配りであり労りと聞こえたことであろう。
「申し訳ありませんでした」、冬季オリンピックで良い成績を期待されていたが結果が出せず、その選手が涙ながらに語っていた。結果が出せなかったとしても、決して悪いことではないし、まして謝ることなど必要ないのにと思う。しかし思わず口をついてしまう程、選手にそう言わせている何かがあるからではないか。競技をする以上、良い成績を収めたいというのは当然のことだろう。でもそれは選手が思い願うことであって観戦する者が求めることではないにも関わらず、結果が取り上げられ過ぎているように思う。そこに至るまでの様々な努力という過程に、私たちはもっと目を注いであげるべきではないかと思う。過程を飛ばして結果だけが取り上げられることが多いという現状が、選手たちに「申し訳ない」という言葉を発しさせているのではないだろうか。最近注目されているスノーボード(夏はスケートボード)の若い選手たちが、競技を終わると互いに称え合っている姿は心温まるものがある。気を抜けば大けがを負う厳しい練習の日々という過程を知っているからだろう。そう思うと、どの選手も最後までやり切って競技を終えて欲しいと思いながら、オリンピックを観戦している私がいる。
ザアカイはイエスの前に行くと、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」と決意を述べる。イエスは「救いがこの家を訪れた」と語られた後、「人の子は、失われたものを捜して救うために来た」と告げられた。イエスはまさに私たちの埋もれた「過程」に寄り添うためにこられたのであり、私たちもまたそこに主が目を注いでくださっていることに気付くなら、一歩を踏み出す力を得ることができるのではなかろうか。「そこに至るまでのあなたが愛おしい」、そんな眼差しを与えられるよう祈りたい。