正しく、恐れる

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ちょうど2年になる、新型コロナウィルスが広がり始めて。対岸の火事と感じていたが、徐々に日本でも感染者が見つかるようになって、当初は「インフルエンザのようなものではないか」と勝手に判断していた。それは願望だったのだろう、今から思えば。正常性バイアス(自分だけは大丈夫と思う心理)を働かせて平常心を保たせられたのはひと月程だった。マスクが手に入らない状況が生じ始めた頃には、高齢で持病がある私は「コロナに感染したら、確実に重症化し死ぬ」と不安を募らせた。分からないことが多く、ワクチンや治療薬の目途もなく、やみくもに見えないウィルスに脅えるしかなかったからだ。要するに、何が正しいのかも分からず、「只々恐れていた」状況であった。感染拡大の最初の頃を思い返せば、多くの方が同じような心持ちであったのではなかろうか。

オミクロン株はこれまでになく感染力が強い。2年間培ってきた対策も、変更を余儀なくされることもあるだろう。私たちはどうするべきか?感染力が強いということからの不安もあるが、私たちが為すべきことは、慣れることなく気を緩めることなく、この2年間繰り返してきたことを、ひたすら行い続けることしかない。そうすることがエッセンシャルワーカーと呼ばれる人々への支援になり、大切な人を守ることになるからだ。それは「只々恐れること」ではなく、「正しく、恐れること」にほかならない。

イエスが宣教を開始する前、荒野にヨハネが現れ、彼の許には群衆が詰め掛けた。来るべきメシヤか大預言者かと期待したからであろうが、根底にあったのは「神の裁きの恐れからの解放」であっただろう。イエスの許にも絶えず群衆が集まってきた、癒してもらうために。癒されることは、単に健康が与えられるというだけでなく、「罪人として断罪される恐れからの解放」をも意味したからである。先祖代々語り継がれてきたそのような「恐れ」は、信仰を形骸化し、絶えず不安の中で生き方が委縮したものとなってしまう。かつてルターも修道士になって初めてミサを司った時、「聖なるものの恐怖、無限なるものに対する恐れが、彼を電光のように打った」(ベイントン著「我ここに立つ」 p.28)とあるように。しかし私たちは忘れてはならない、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」(ヨハネ3:17)と語られていることを。即ち、「只々神を恐れる」のではなく、「正しく、恐(畏)れる」ことこそが揺るぎない信仰となり、どのような困難な中にあっても前を向く力を与えてくれるのだ。

もうしばらく「正しく、恐れ」て、過ごしましょう。主のお守りを祈りつつ。