ほぼ・・・

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「ほぼ皆既月食」、140年振りだというので肉眼でみるつもりだったが、バタバタしている内に気付けば7時過ぎ。急いで東の空を眺めたのだが、既に「ほぼ」の状態は過ぎ、終わりに向かっている最中だった。だから次こそ「この目で」と思うのだが、65年後だという。世界最長寿を目指せば見ることもできるかもしれない…が、無理!結局、夜のニュース映像で綺麗な「ほぼ皆既月食」を拝見し満足したのであった。

月食は「皆既」か「部分」かくらいしかないと思っていたが、98%以上の部分が隠れる月食を「ほぼ皆既月食」と呼ぶのだということを今回初めて知った。気象や天文に関する用語は、より厳密にそして正しく伝えようと苦労しておられるから、私の中には「お堅い」というイメージがあったので、「ほぼ」という曖昧な副詞を正式名称とすることに、なんとなく人間味を感じてしまった。140年前からそのように呼ばれていたとは思わないが、どのようにして「ほぼ」と名付けたのか経緯が分かる方がいれば教えて欲しいと思う程だ。

ある安息日にイエス一行が麦畑を通っていた時、空腹になった弟子たちは麦の穂を摘んで食べ始めた。(貧しい人や旅人が、他人の麦の穂を空腹になった時に手で穂を摘むことは許されていた。申命記23:26)それを見たファリサイ派の人々は、「安息日に禁止されている労働を行った」と非難した。するとイエスは、ダビデが供の者たちと神殿の備えのパンを食べたこと等を引き合いに出しつつ、「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われた。(マルコ2:23-28)律法は文言通りに変更することなく用いることだけが良いのではない。むしろ人のために与えられたものであることを理解するときに、律法は人々にとって素晴らしいものになっていく。イエスの律法の受け止め方は「ほぼ律法主義」とでも言えるのではないか。

完璧で絶対正しい信仰は、私たち人間には分からないもの。変わらないのはただ聖書のみであって、自らの信じる信仰の上に立っているのであるが、それは「ほぼ正しい福音理解」なのであるからこそ、様々な教派が生じるのである。そして個々人のことを取り上げても同じ事がいえる。完璧なクリスチャンではなく、私たちは皆「ほぼクリスチャン」に過ぎないことに思いを馳せれば、肩ひじ張らずと生きていけるのではなかろうか。

写真:イメージ

「ほぼ皆既月食」の瞬間は見逃したものの、ニュース映像等で見ることができたのだから、「ほぼその瞬間を見たようなものだ」と納得することにした。