ニュースにならない人たちのこと

(14)

「我慢のゴールデンウィーク」が終わり、人出はコロナ以前に比べればかなりの減少がみられたというが、昨年に比べると人出は増加し、感染者の急激な減少とはならなかった。感染者・重症者の棒グラフ、重症化した人々の辛い状況、遅々として進まぬワクチン接種等々、連日ニュースに取り上げられ、心を痛める日々が続く。その一方、多くの人は出来る限り感染防止に務めながら生活を続けている。しかし、その人々の日常がニュースとして取り上げられることはないし、私たちが知る由もない。かくいう私も「ニュースにならない人」のひとりには違いないが・・・。

「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランス(現在の日本円約60~100円相当)を入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。』」(マルコ12:41~44)金額の大小よりも、全てを捧げたやもめの信仰への賛辞がそこにはある。同時に「ひとりの貧しいやもめ」は誰の目にも留まることもない、現代風に言えばまさに「ニュースにならない人」のひとりであり、彼女に向けられたイエスの眼差しをこの箇所を読むたびに覚えることができる。そんなイエスの眼差しは、今も変わらず「ニュースにならない人たち」に「あなたのことを知っているよ」と向けられているはずである。

2011年秋から1年かけて市川教会会堂の大改修を行った。開始から半年、塔屋(4階)部分の解体が始まったある朝、犬の散歩をしていた時、見知らぬ老婦人が心配そうな顔をして、「牧師さんですよね、教会は無くなるのですか?」と声を掛けてこられた。どうして私のことをご存じなのか理由は尋ねなかったが、「改築するだけで、無くなりませんよ」と応えると、ホッとした顔で「良かった」と呟かれた。住宅地の4階建ての会堂塔屋は、かなり遠方からも見ることが出来る。教会に連なることがなくても、恐らくその方のように、気にかけてくださっている方が沢山おられたことだろう。だからこそ今、コロナ禍中を生き、塔屋の存在を心に留めてくださる地域の人々に、「ニュースにはならないけど日々予防に努めているあなたたちのことを知っているよ」という神の呼び掛けも届くことを願いつつ、主の日に鐘の音と共に開始される礼拝を守り続けて行きたい。