忍耐と我慢

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私は2000年4月市川教会に着任したが、就任式は同期で当時の東教区常議員であった故H牧師が執り行ってくれた。子ども4人いることも知っていたので、彼は沢山のショートケーキを手土産に来てくれた。心遣いはとても嬉しかったのだが、中身は全て違う種類のケーキ。お礼を言いつつも心の中で「出来れば同じ種類のケーキが良かったのだけどなぁ」と呟いてしまった。誰が好きなケーキを食べ、誰が我慢してくれたかは忘れたが、小・中学生だった子どもたちにとって、「食べたいけど我慢する」ということは、かなり辛いことだったことだろう。たかがケーキ、されどケーキ、我が家では「争いの種」は常に存在し、その度に「我慢」という訓練をさせられたことであろう。「あれが欲しい!」、「まだ遊びたい!」等々、子どもの欲求は際限がないが、社会で生きるために、最初に教えられることのひとつが「我慢すること」なのだろう。

「我慢のゴールデンウイークを!」と呼び掛けられている首都圏。昨年は今年よりもっと厳しい制限の中で、強いられた「我慢」を受け入れ過ごしていた。ウイルスへの対処方法も分からず、マスクが有効な手段と分かっていても手に入らない不安の中にあった。それでも「我慢すればコロナ禍は収まるのではないか」と、心の片隅で「正常性バイアス」を膨らませて過ごしていた。一年経ち、昨年よりウイルスは強力になり感染者もはるかに多いというのに、街中の人出はかなり増えている。コロナウイルスとどのように向き合うかを模索した結果だといえるのかもしれないが、その一方、繰り返される休業や自粛の要請に、「我慢も限界」となってしまったのではないだろうか。具体的な目標も示されないままの「我慢要請」では、もはや人の心を動かす力にならないのだろう。

聖書の神は「我慢する神」ではなく、「忍耐する神」である。「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」(2ペトロ3:9)と記されている通り、神は明確な目標をもっておられるからである。同様に私たちも明確な目標をもつことで「我慢」ではなく「忍耐」できるのではなかろうか。

子どもたちに「我慢しなさい」とつい口走ってしまう大人。多くは理由も示さず、大人の都合で我慢させているだけかもしれない。子どもたちに理由を説明し「一緒に我慢しようね」と言ってあげたら、彼らはそこから自然に「忍耐すること」を身に付けてくれるのではないか。そして願わくは、神はそれ以上に自分のために忍耐していてくださることに気付いて欲しいが・・・。