時にはあるがままに

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「(イエスは)神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」(ヨハネ2:14~16)険しい顔、語られた言葉からにじみ出る怒りが聞こえてきそうである。現代ならば、たちまち逮捕されてしまうような出来事である。宣教活動3年と言われているが、イエスの怒りを感じられるような出来事は限られている。「宮きよめ」と言われるこの箇所と、悪霊に向かって叱られた時(マルコ2:25,同8:33)、嵐を叱られた時(マルコ5:39)だけである。つまり、イエスの怒りは、人間には見えないが、人間を支配しているものに向けられているとも言えるのではないか。そのことからすれば、「宮きよめ」の場面においてイエスの怒りは、神殿で商売していた人々ではなく、その人々を支配していたものに向けられたということである。

神は本来「神殿」を必要とされないが、神との契約を具現化し、その臨在を象徴するものとして神殿が建てられた。礼拝は祭司やレビ人によって行われ、一般信徒が神殿の中に入ることは許されなかったが、犠牲を捧げ、「神は近くにいます」ことを体現する信仰の場であった。しかし、イエスの目の前で繰り広げられていたことは、本来の姿とはかけ離れていた。犠牲は捧げられていたものの、犠牲のための犠牲であったし、犠牲を捧げる行為が中心となってしまい、本来あるべき神の臨在への尊敬や信頼も奪うものであった。だからイエスの厳しさ・怒りは人々に向けられたというよりも、人々から本来の姿や意味を奪ってしまった「犠牲」に向けられていたのであった。ただし、人々がそのことに気付くのは、十字架と復活の後のことではあるが…。

正直に言うが、コロナ禍の日々は辛く苦しい。それは誰しもが思っていることだろう。そのような時に、私たちは自分よりもっと大変な苦労をしている人のことを思い、自分の辛さを我慢しなければならないと考える、「それが普通の良い人のなすべきことだから」と。だが、それでは犠牲を捧げることで本来の姿を奪われてしまっていたイエスの時代の人々と同じ!時には「普通の良い人」であることを止めて、神のみ前であるがままの自分をさらけ出したら良い。その時にこそ、神は私が為すべき事を教えてくださる筈だから。

休校要請から1年、神がどんなに寄り添ってくださっていたかを思い起こしつつ。