髪、切った!?|私たちに関心をもってくださるイエス

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「ぼくしせんせい、かみ きった!?」と、散髪後の最初の保育園礼拝に行くと子ども(たち)に声を掛けられる。予想通りの反応に私も笑顔で「そうだよ!」と応える。私が散髪するのは2,3ヶ月に一度。その度に同じような声がけと反応。楽しむというよりも、「反応があったことに安堵する」というのが本音である、子どもたちが私に関心を持って見ていてくれるという証しだからだ。週に一度の礼拝時しか触れ合うことがないので、先ずは「ぼくしせんせい」という存在に関心をもってもらうというのは大切な事と自覚してきた。私の話し方や表情では子どもたちの反応は乏しいが、散髪したり特別な時のアルバ(式服)姿という大きな変化は、三才くらいになると気付きやすい。

「クマのぷーさん」の作者A・A・ミルンは「六つになった」という詩を書いた。「一つのときは なにもかも はじめてだった。二つのときは ぼくはまるっきり しんまいだった。三つのとき ぼくはやっと ぼくになった。四つのとき ぼくは 大きくなりたかった。五つのときには なにからなにまで おもしろかった。今は六つで ぼくはありったけおりこうです。」(周郷博訳 註)乳児期と幼少期の違いが良く表現されている。自我が芽生え始める三才頃に、得体のしれない「チャプレン」と礼拝で毎週出会うようになる。「ぼくになった」自分に関心をもってほしくて、「ぼくしせんせい、あのね…」と話しかけてくれるようになる。時折、何を言っているのか分からないこともあって、私は「そうだったの、良かったね」と、多分トンチンカンな応えをしていることもあるだろう。でも子どもたちは応答の正しさよりも自分を見てくれたこと、応じてくれたことを喜んでくれる(と思う)、「自分に関心をもってくれた」と。

イエスの弟子は12人。弟子になったきっかけは様々だが、ほぼ共通していることがある、イエスの方から「わたしについて来なさい」と声を掛けられたということだ。かつてマザー・テレサは「愛の反対は憎しみではなく、無関心」と語ったが、イエスは宣教の始まりから人々に心を寄せ関心をもち、愛を実践しておられたのである。

「ぼくしせんせい、かみ きった!?」と次に聞いてもらえるのは、クリスマス前かなぁ。「いやいや、もっと早く行って身だしなみを整えなさい」と言われそうだ。

(註)訳文には多少の違いがあります。色々な方の訳に触れてみるのも面白いでしょう。