その記憶はホンモノか|記憶から得られる恵み

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あの日、私は姉と弟と三人だけで、引っ越し先の前にあった保育園のブランコで遊んでいた。両親と手伝いに来た大人たちは、引っ越しの荷物を搬入するので忙しかったからである。突然私はブランコから落ち、そこにブランコの台座が私めがけて揺れ戻ってきて、私の右目のわずか横にぶつかった。激しく泣く私の声を聞いて母が駆け寄り、血だらけの私を抱っこして懸命に土手を走り病院に連れて行ってくれた。私を抱いて土手を走る母の姿が鮮明な記憶として残っている。右目尻から数ミリの所の傷は深く消えることなく今も目尻の横にある。65年前、4歳の時の私の記憶である。

確かに私の記憶にあるのだが、事実といえるのは「ブランコから落ち、台座で傷を負い、その時に縫った傷が今も残っている」ということだけである。どれほどの血が流れたのか、その時に駆け寄ってきたのが母だけだったのか(もしかしたら父だったかもしれない)、まして土手を私を抱いて走る姿を私自身が見られる筈はないのだから明らかにこれは事実でもなく、あるいは聞かされた話しなのかすらも分からない。しかし、母ならきっと駆け寄ってくれただろう、母ならきっと私を抱いて教えられた病院まで走って連れて行っただろうと、それがホンモノであると信じている。だから私は母を思う時、その記憶を真っ先に思い起こすのである。その記憶は事実ではないかもしれないが、その記憶はホンモノとして私には刻まれているのだ。私はそれで良いといつも思っている。何故ならそこには私に対する母の、そして私が抱き続けてきた母への思いがこもっているからだ。

福音書は、復活したイエスが昇天してから半世紀以上たって記され、成立した。実際にイエスに出会い、様々な出来事を経験した弟子たちが記録した訳ではない。弟子たちを始めとして多くの人々の記憶に刻まれたイエスが語られた言葉や出来事が伝えられ、時を経て記録されたものが福音書としてまとめられたのである。その理由は「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20:31)ということに尽きる。だからこそ、福音書はイエスと出会い、イエスを伝えようとした人々のホンモノの記憶の書物なのだと、母への記憶と比しつつ思うのである。

施設の子どもたちと共に礼拝を守る機会が多いが、神様の事柄がどれほど記憶として刻まれるかは分からない。しかし成長した後に神様のこと記憶の中から取り出してくれたら、「それはホンモノだよ」と神様がささやいてくださるに違いない。