生きる意味や価値に目をとめる

第五章 岐路に立ち選択するとき

人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。

人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。(マタイによる福音書4章4節)

【解 釈】 イエスが洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた後、荒れ野で悪魔の誘惑を経験されたことがあったが、悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘った。これに対しイエスは、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われたのである。

日常の生活を考えるとき、バン抜きに生きることは不可能である。パンはこの肉体をもって生きるためにどうしてもなくてはならないことぐらいは、だれでも容易に想像できる。食べることは人間の一大事である。もし石がバンに変わるのであれば、それこそ食べることに汲々(きゅうきゅう)とすることはないし、あくせく働く必要もない。悪魔の誘惑は、その人間の願いを象徴している。しかし、石はけっしてパンに変わることはないのが、現実の生活である。悪魔は、人が生きる上でパンがなくてならぬものであることを十分知っているので、イエスに向かって、「お前は神の子だから、この石に命じてパンになれと言ってみよ」と言うのである。イエスはこれに対して、「人はパンだけで生きるものではない」と悪魔を退けられた。

イエスは人間の現実をよくご存じであった。その上で、人間が生きるためには口に入れるパンだけでなく、神の口から出る一つ一つの言葉がいると言われるのである。食べることは、口に入れることである。しかし生きることは、口から出る人の言葉でなく神の言葉による。言葉は、口でなく耳で受け取る。食べることと関係のないところに、生きるための意味や価値があるのだと言われるのである。

【こころ】 この言葉を、武士は食わねど高楊枝、お腹が減っても平気な顔をしていなさいということだと、単純に理解してはいけません。また、「人はパンだけで生きるものではない」とあるので、パン以外のなにかが必要という意味だろうと、食べることのほかになにが必要かと考えるのも勝手がよすぎます。神は、人間が苦労しないように生活を整えてくださるとか、健康を保ち、幸福を約束するためにおいでになるのではありません。

ここでの強調点は、パンとは無関係のところで人間が生きるということを考えたときにはなにがいるか、ということにあります。

不治の病を患っている方がおられました。死を覚悟し、病床にあって、いろいろな闘病記や宗教書をよく読んでおいででした。死期が迫ったころ、病床を訪ねると、「これまで、いろいろな闘病記や宗教的な本を読んできました。私にはどの本を読んでも、いかに死ぬかということが書いてあるように思えます。しかし、聖書はちがうような気がします。聖書はいかに生きるかを教えていますから」と言われます。そして、「それで私は洗礼を受けようと思います」とおっしゃるのです。

印象深い言葉として、今でもよく覚えています。聖書はいかに生きるかを教えている、なるほどと思わせる言葉でした。早速、病床洗礼を執行したことは言うまでもありません。この方の葬儀のとき、「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11・25)との聖句がこれほど鮮やかに心のなかをよぎったことはありませんでした。

神の口から出る言葉は、耳をもって聴くとき、死さえも生きることへと向きを変えることを教える証しがここにありました。

賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より