ほんとうはなにをしたいのか

第五章 岐路に立ち選択するとき

人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。

あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。(創世記12章1節)

【解 釈】 旧約聖書に登場するアブラハムは、信仰の父と言われ、現在のユダヤ人の先祖とも言うべき人物で、聖書によるとカルデアのウル(ユーフラテス川の下流に位置する)の出身であった。アブラハムは七十五歳のとき、「大いなる国民となる」という神の約束を信じて、故郷を去り、新しい土地へ出立する。特に決まった土地があるわけでもなく、そこに至る道筋もはっきりしているわけではなかった。神が行けと言われるのでアブラハムは故郷を出た。あてのない旅であった。しかしアブラハムは、神から命じられたまま、約束だけを信じて故郷を出る。その旅は、約束された地カナン(パレスチナ地方)に至るまで続くのである。

信仰は冒険を求める。人生の旅には、はっきりしないが、どうしても先へ進ま
なければならないときがある。先になにがあるか分からない。分からないが、あると信じて一歩を踏み出す冒険のような旅が始まる。しかし信仰による冒険は、運を天に任せることとはちがう。運を天に任せるとは、そうなるか、ならないかは結果を見ないと分からない。しかし信仰は、かならずそうなると信じて一歩を踏み出すのである。

【こころ】 歳を取っても困らない人生を送るためには、一流会社へ就職するのがなにより、そのためには一流の大学へ、そのためには高校でも進学校と言われるところへ、そのためには中学、小学校を選ばないといけないというのが、現代社会の大方の流れのようです。要は、いかにすれば良い人生が送れるかのプログラムを描き、それに従って生きることが大切とされるのです。先を見て安全に人生を送るには、プログラムがきちんと立てられ、そのとおりになることがなによりです。

しかし信仰には、プログラムを自分で描くということがありません。一流大学を卒業して一流会社へ就職したにもかかわらず、どうしても会社になじむこ
とができず、悶々として相談に来た人がいました。聞くところによると、これまで一度も受験に失敗したことはなかったと言います。
「僕は中学でも高校でも、受ければ通ってしまうので、勉強するにも張り合いがない。親が先のことを考えて良い大学へ行けと言うから、人が一流という大学へ行ったが、自分としては、さして行きたいとも思わなかったが、就職も特にそこでなければならないとは思わなかったが、それ以上の会社はなさそうだというので行っているだけだ。すべてに張り合いがなく、これから先どう生きてよいか分からない」というのが訴えの中心です。人から見れば、羨ましいほどの頭脳と経歴に恵まれた人ですが、本人は真剣です。

「あなたはほんとうはなにがしたいのですか」と私は言いました。彼は、「僕は牧師になりたい」と言います。「もし牧師になりたければ、このふたつのことには縁がないものと覚悟しなさい。その覚悟ができたら、もう一度私のところに来なさい。ひとつはお金、もうひとつは名誉だ」

お金と名誉に縁がないということは、この世のプログラムから自由に生きる者が覚悟しなければならないことです。牧師であって、自分で描いたプログラムどおりに生きている人はほとんどいません。そう思って言ったのです。

「でもね、君に言っておきたいことがある。金と名誉には縁がないが、恵みと感謝には大いに縁があるよ」

プログラムどおりの人生には、そのとおりになって当たり前という気持ちはあっても、思いがけない恵みや感謝とは無縁であることを知ってもらいたかったのです。

この青年にも、プログラムなしの新しい人生の旅立ちを始める日がやって来るにちがいありません。

賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より